リスボンに憧れながら世界の片隅で砂を掴む

本、ポルトガル語学習、海外移住よもやま話。(※在住国はポルトガルではありません。)

貫井徳郎『乱反射』。犬のフンと時代の流れ。

貫井徳郎氏(の本)との出会いは、ミステリ小説『慟哭』であった。読んだのはもう一年以上前なので内容はうろ覚えだが、あの鉛のような読後感はまだ記憶の中にある。恐らく、その読後感の勢いで買ったのであろう、『乱反射』が電子書籍積読リストの中に埋もれていたので、引っ張り出して読み始めた。

 

あらすじ

「放置された犬のフンのせいで、幼児が死んだ話である。」

……などという風に書いたら、身も蓋もないのだが。

要は、「一人一人の人間が、我が身可愛さに小さなモラル違反を犯し、それがドミノ倒しのように次々と連鎖、やがて一人の幼児の上に事故として降りかかる。」という群像劇である。

そのドミノ倒しの見事さは恩田陸の『ドミノ』を超えている……と思ったら、貫井氏も『ドミノ倒し』なる作品を書いていた。(ただ、そちらは評判があまり良くないようである。)

ミステリにしては数が多い登場人物の全員をバックグラウンドから丁寧に描いている点、ストーリーの緻密さは高く評価する。

 

「想像力不足は罪だと思いませんか?街路樹がきちんと診断されなければ危険だということくらい、少し考えればわかると思いますが」

ひとりひとりが掲げる”都合”は些細なものでも、こうまで連続すると総体としての罪の大きさを実感せざるを得ない。彼らひとりひとりの責任は確かに小さいが、決してゼロではないのだということをなんとしても知って欲しかった。

 

幼児を失った父親である新聞記者が、「罪を犯した」人々を探し、ひとりひとりに会っていく。だが結局、正面から謝罪をしたのは、自首の上逮捕された人間一人であった。しかも彼の家庭は事件後に崩壊してしまった。正直、そこまで転落させる必要があったのかと思う。

もう一人、事故現場に手を合わせ、謝罪の言葉を述べた人間がいる。彼女は自分の運転免許証をビリビリに破ってしまった。

結局、誠実な人間ほど罪の意識に苛まれ、人生が暗転してしまう。誠実でない対応をした人々も、家族や同僚から冷たい目で見られたりするのだが、被害者に対して心からの謝罪をした二人に比べたら、人生の立て直しは難しい事ではない。自己愛が強すぎる登場人物に至っては、その後も、幼児の死の事など何とも思わずに生きてゆくのだろう。

 

そして最終的には、モラル違反を糾弾して歩いた被害者の父自身も、自分が「モラルに欠けた行動」をしてしまった事を、ふとした瞬間に思い出してしまうのである。

この世に聖人は居ない。誰もが一度は何か「道義的に好ましくない事」をしている。

この新型コロナの時代に於いては、「買い占め」「転売」「隔離施設からの逃走」など、「道義的に好ましくない行動」が世界のあちこちで表面化し糾弾されている(隔離施設からの逃走は国によっては犯罪である)。

この小説は、モラルについて読者がじっくり考えるきっかけになるだろう。

 

漂う昭和臭

フェミニスト的観点から批評せねばならぬ!」と気張って読んだ訳ではないのだが、それでも気になってしまうのは、本作の中の女性の立場である。

出版自体は2009年であり、自作ホームページの話も出てくるので、恐らく10年から15年ほど前の日本が舞台であると思われるが、専業主婦率が非常に高い。それ程裕福ではないけれども持ち家がある家庭の主婦も登場するが、パートも何もしていないようである。家のローンや子供の学費が払えるのだろうか。

フルタイムで働いている女性も登場するが、主体性に欠けている。看護師の女性がアルバイトの医師にコーヒーを準備したり弁当を買ってあげたりする記述があるが、当時はそんな事があったのだろうか?(私は医療職に就いた事がないので、実際の現場のことはわからない。)

また、作者の皮肉なのかもしれないが、登場人物の一人である有閑マダムが、退職の決意を宣言する娘を前にして「立派な会社に勤める一流の男性と結婚するのは、女にとって一番の幸せではないか。そんな機会を会社がお膳立てしてくれるのだから、こんなに社員のことを考えてくれる企業も他にないだろう。」と内心考えているシーンがあるが、2020年を生きる現役世代の人間から言わせて頂くと、とち狂っているとしか思えない。これが江戸時代の話であれば「そういうものだったのか。」と納得もするが、舞台は平成である。未だにそんなことを言っているのかと、背筋が凍る。だが、戦後から平成にかけてはそれが「人生の成功」への道筋、親が子へ示すものだったのだろう。

結局、世の中の流れが、誰もが思っている以上に早かったので、彼ら(有閑マダムのような人間)はそれについていくことが出来なかっただけなのかもしれない。その濁流のスピードは加速度的に上がっている。世界は目まぐるしく変わっていく。あの戦後からの、昭和・平成の時代が特例だったのだろう、一瞬だけ時代のスピードが落ちたのかもしれない。

故に、昔の「サクセスストーリー」「勝ち組になるための人生哲学」は参考にならないどころか、若者がこの世の中を生き抜く力や、生き延びるチャンスを奪う枷となるだろう。 

この激動する世界の中でこれからの人間・男女ともに必要なのは、何かに依存して生きることではなく、自分で自分の人生をコントロールできる強さだと思う。

 

犬のフンを置き去りにする人間は誰であろうと尊敬に値しない

私が最も嫌いな登場人物の一人である、退職後のサラリーマン男性が、犬のフンを片付けなかった事をガングロ女子高生に咎められた時、「君はいったい何者だ。どういうつもりで、目上の人にそんな口を利く?」という台詞を発する。これが、肌が粟立つレベルの嫌悪感を沸き起こさせるのである。その後も当該人物は「俺は偉いんだ」という不快な態度で登場してきては読者を苛立たせる。この「年上が目上」思想は東アジアに蔓延る、儒教を由来とした思想であるが、はっきり言って害悪しかもたらさないと私は思う。そもそも、何歳であろうが、飼い犬のフンすら片付けない人間は全く尊敬に値しない。私が住んでいる地域にも犬の糞を置き去りにする輩が沢山おり、朝の出勤時にはまるで地雷原のような糞ロードを歩かなければならないので、糞を片付けない人間に対しては猛烈に腹立たしく思う。

尊敬に値しない人間を強制的に「目上」指定する儒教とは一体何なのか。そもそも「歳を重ねて豊富な経験があるのだから、人間が出来上がっているに違いない。」という前提が完全に崩壊しているのだから、そんなものは従うに値しない。

書いているうちに腹が立ってきたので、この話はここまでとする。

 

 

『慟哭』を読んだ際には気にならなかった事だが、時代の流れを感じる、というよりも、前時代の灰汁を煮出して凝り固めたような登場人物に嫌悪感を覚えて話の内容に集中できないので、貫井氏の他の作品はもう読まないかもしれない。