リスボンに憧れながら世界の片隅で砂を掴む

本、ポルトガル語学習、海外移住よもやま話。(※在住国はポルトガルではありません。)

外国人は聖人ではない。我々と同じ人間である。

「うちのフランス人はホニャララと言っていた。」

「同僚のマレーシア人はホニャララと言っていた。」

 

ネットを周回しているとこのような証言に出会う事がある。

ネットを周回しなくても、「フランス人は服を5枚しか持たない。」等の謎の本が量産されている。紙の無駄ではないだろうか。

疑う事を知らないピュアなハートの人は、そういった情報を目にして「へー、そうなんだ。マレーシア人はそう思っているんだ。」「フランス人って服5枚しか持ってないんだ。」と思ってしまうかもしれない。自分にとって都合の良い話であれば尚更。

 

しかし、その話、そのまま飲み込むにはちょっと主語が大き過ぎる。

 

日本人にだって、色々な人がいる。

ジャージでドン●ホーテに夜な夜な現れるDQNから、ブラック企業で働いて心身共に削られて幽霊のように生きている人、日常的にギロッポンでシースーを食べるような人など、様々である。

例えば「日常的にギロッポンでシースーを食べるような人」の意見を、日本人の代表意見として採用されては困る。「日本人は六本木の寿司が一番美味いと言っていたから、日本旅行の際には必ず六本木に行こう。日本人が言うのだから間違いはない。」などと言われても責任は取れない。

「とある外国人の見解」をその国の代表意見として一般化してしまうというのは、こういう事である。

 

外国に住んでその国のドンキ●ーテ層、不良と付き合う人はあまりいないだろう。恐らく、親しく付き合う事になるのは「高度な教育を受け、国外の出来事にも興味ある意識高い外国人」である事が多いと思うのだが、そういった人はかなりの少数派の可能性がある。少数派の意見をまるでその国の代表意見のように取り扱い、有り難がったり広めたりするのは、おかしくはないだろうか。さらに言うと、「先進国西洋人の意見」の場合、まるで訓示か何かのように扱われていて始末が悪い。

それだけではない。意見の発信元が「先進国の外国人」に限らずとも、妄信している人を散見する。好意を持つ国の国民や民族に大して、まるで聖人像でも投影しているかの如く、「彼らの意見に間違いはなく、彼らは正しい。それに反する事を言うような他の人間は、完全なる嘘つきである。」と信じ切って発信している人がいる。その考え方は、偏見に繋がる可能性もある。

 

果たして、それで良いのだろうか?

 

私が知る最悪の例を、ここにはっきりと記しておこう。

現地人と一緒になって、他の民族を貶す日本人が存在する。

何という下劣な精神なのだろう。そのような人々は外国までやってきて、一体何を学んだのか。

 

続けて書くとまた言葉が強くなってしまいそうなので、今日はここまでとする。