リスボンに憧れながら世界の片隅で砂を掴む

本、ポルトガル語学習、海外移住よもやま話。(※在住国はポルトガルではありません。)

ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』。ノーベル賞作家が抉り出した「人間」。

あらすじ

ある男が、自動車の運転席で信号待ちをしていた時、突然目の前が「真っ白に」なり失明してしまった……そこから本作のストーリーが展開する。白い失明は瞬く間に周囲へと広がってゆき、失明の感染を恐れた政府は患者たちを収容施設に放り込む。介助も無く、綺麗な水も出ない、打ち捨てられた旧精神病院の中で、唯一失明していない眼科医の妻が、極限の中奮闘する。何の為に?自分の為、夫の為、そして偶然出会った周りの人たちの為に。

 

医者は短くうめいて、涙をふたつぶ、こぼした。たぶん白いのだろうと思った。

 

読み始める前に

新型コロナウイルスの影響でカミュの『ペスト』が売れているとの事であるが、本作にも謎の感染症が登場する。ただ、この作品の感染症は現実に存在するものではない。SFエンターテイメント的なものとして書かれた訳でもない。『白の闇』は寓話なのである、ガリバー旅行記(スウィフト)と同じ類の。故に、本作を理解する為には、物語の表層をサッと撫でるように読むのではなく、事象が何を示唆し、風刺し、象徴しているのかを手探りし理解しながら読まなければならない。そうでなければ、その世界の中で迷子になってしまう。

また、本作のように理解の難易度の高い本(「そうかな、簡単ですよ。手に取るようにサラマーゴの事がわかる。」というマウントはお断りである。)を読む際には、作者の政治的立ち位置や信仰する宗教を知っておくと、作者が何を書いているのか理解する手がかりになる。ジョゼ・サラマーゴの場合、ポルトガル人だからカトリックかと思ったら無神論者であった。しかも共産主義者でもある。思想的に思いきり偏っているようなので、作品の意図するところが見えやすいかもしれない。

 

感想

……などと思って読んだら、非常に難しい作品だった。頭脳をフル回転させなければついていけない。

サラマーゴの鉤括弧を使わない文体は読んでいるうちに段々慣れてくるのであまり問題ではないのだが(勿論ぼんやり読んでいたら、誰が何を言っているのか見失うことは間違いない)。

作中での「見えない」事は、何を意味しているのか、一体何が「見えない」のか。

読了した日は夜中まで延々と考えてしまい、寝付きが悪かった。

 

わたしたちは目が見えなくなったんじゃない。わたしたちは目が見えないのよ。目が見えないのに、見ていると?目が見える、目の見えない人びと。でも、見ていない。

 

上記は、本作の主人公である眼科医の妻の最後の台詞である。

(「目が見えないのに、見ていると?」の部分は眼科医の台詞と解釈した。)

恐らく、「私たち」が「見えていない」のは、 外見、社会的地位、世間体、人間を飾り立てるものを削ぎ落とした「人間の本質・魂」ではないだろうか。登場人物の「名前」が一切出てこない事も、その示唆であるように思える(名前に意味がない、名前はいらない、という表現が何度も出てくる)。名前という装飾すらも取り払った、声しかない「一人の人間」。頼りない、剥き出しの「人間」である。

物語の中で、人々は視力を失い、この世を生き抜く為の鎧を失い、赤ん坊のように丸裸の状態(※物理的な意味で服は着ている)になった上、不衛生で無秩序な場所に放り込まれた事により、徐々に、思いやりのある行動、思慮深い行動ができなくなってしまう。人間としての尊厳が崩壊し、消失してゆく恐怖。

 

患者全員が人間の尊厳をなくす階段をどんどん降りていった。そしてどん底の生活にまで堕ち、わたしたちはそれでも零落したのは他人だと言いわけをした。たとえ形が違ったとしても同じことは起こりうるわ。

 

ただ、そんな世界の中でも、優しさや愛情を忘れない人間もいる。

柔らかな人の魂、その人の本質を覆い隠している全てが剥がれ落ちた事により、若く美しい娘と、老人との間に愛が生まれた。目が「白い闇」に覆われていればこの恋は無かっただろう、老人と娘もそのように述べている。娘の目は白い闇に包まれていたが、娘の魂が老人の魂を「見る」事で、恋に落ちたのだと思う。

 

いっしょにいたいと思うほど好き、こんなことを人に言うのは初めてだわ。

以前どこかでわたしと出会ってたら、そんな言葉は口にしなかったでしょう。

 

周囲にいた目の見えない仲間たちは祝福したり希望を持ったりできる気分ではなかったと記されているし、それは非常に現実的な感想だと思うが、このような状況だからこそ、愛情などのポジティブなものが救いになるのではないか。

 

尚、政治体制への批判、秩序と無秩序、フェミニズムについても深堀りすれば何時間でも語れそうだが、そこまで書き始めると終わらないのでやめておく。

また、教会の描写など、まだ解釈出来ていない部分があり、己の教養・力量不足を痛感している。「見える・見えない」に関しての解釈も誤りであったら、笑うしかない。

 

作品の舞台を探る

本作の舞台の地は名言されていないが、多くの人々がごちゃごちゃした街の共同住宅に住み、駐車場ではなく路地に駐車をしている事、作者がポルトガル出身である事などから、ポルトガルのどこかの街ではないかと考えた。

英語版ウィキペディアにも、登場人物がチョリソーを食べている事、言語的特徴(二人称単数tuが主語の場合の動詞の形に関して)、教会の宗派が、ポルトガルが舞台である手がかりになっていると書かれている。が、言語的特徴は日本語訳を読んでいてはわからない事だし、チョリソーはソーセージと日本語訳されていたはずである。翻訳された小説は翻訳者の目を通して作品に触れる事になる(そういった意味では、翻訳者の作品であるとも言える)。そうすると、どうしても見えない部分が出てきてしまう。

AIによる翻訳が劇的に進歩し、いつか外国語学習が不要になると言う人もいるが、外国文学を愉しむ、外国文学の作者が紡いだ世界に入り込む為には、外国語学習は必須だと、私は思う。

勿論、人には能力の限界があるので、翻訳に頼らざるを得ないのだが。