リスボンに憧れながら世界の片隅で砂を掴む

本、ポルトガル語学習、海外移住よもやま話。(※在住国はポルトガルではありません。)

ネイティヴと会話すれば外国語がペラペラになるという幻想

それは資本主義が見せる幻想

外国に住んだり、ネイティヴから教えてもらえば、外国語がペラペラになると勘違いしている人たちがいる。いや、勘違いしているのではなくて、自分が短期留学や語学教室の商売で儲ける為に、敢えてその考えを広めようとしているのだろう。

 

私は海外に住んで10年ぐらいになるが、未だに現地の言語がほとんど出来ない。言われたことを聞き取って理解する事は出来るのだが、脳内での消化に一分ぐらい時間がかかる。そして、先の発言に対する応答をしようとした時には、もうその会話は終わっている。

かれこれもう一年以上その言語を勉強していないし、なるべく使わないようにしているので当然である。進歩する事が無いどころか、退化の道を辿るのみである。

 

帰国子女など在外経験があって外国語も日本語も習得している人は、自分で努力して学習した結果、複数の言語を操れるのである。ただぼんやり生きていれば自動的に耳に外国語が入ってきて理解可能になる訳ではない。

 

英会話教室で西洋人から英語を習えば「自動的に」英語が話せるようになる、と言うのは完全に幻想である。

 

国語学習で文法が嫌われる理由

国語学習を始める上で一番大事なのは「ネイティヴと接すること」ではなくて「基礎作り」であるが、基礎作りの中でも中核を成す「文法」は何故か嫌われがちなのである。

何故文法が嫌われるのか?以下の原因が考えられる。

  1. 教科書がつまらない
  2. 「外国語を話しているぞ!」という充足感が得られない
  3. 学習効果が見えにくい
  4. 教師が悪い

1の「教科書がつまらない」は、マイナー言語学習者からすると「何贅沢言っているんだ!」である。英語の場合、学習者も研究者も多いので教科書や文法書が大変豊富である。公的な教育機関で使用される文法書は大変読みやすく、わかりやすい。(これがマイナー言語の場合になると、日本語で書かれたまともな文法書が存在しない場合もある。)

また、教科書や文法書の解説文が面白おかしく爆笑必至の文体だったら、勉強が捗るだろうか?そうは思えないし、そんなふざけた文法書は信用できない。

 

2の充足感は、「外国語で書かれた書籍を一冊読み切った時の充足感」に比べたら屁みたいなものである。

英会話教室などで「英語で外国人と話している私かっこいい。」と思い、それだけで満足してしまう人もいるかもしれない。が、ナイジェリアで産業廃棄物を片付けている人も英語を話せるのである。旧植民地で生まれ育った人々の中にはトリリンガル、クアトロリンガルもゴロゴロいる。それを知ってもなお、「英語で外国人と話している私かっこいい。」だけで充足感を得られるのだろうか。

 

3の学習効果について。見えづらいのは仕方が無い、勉強しなければならない事が山のようにあるのだから。そんなにすぐ効果が見える学習法があるのなら、皆がそれに殺到し、誰も彼もが外国語マスターになっているはずである。そんな美味しい話は無い。

 

4の「教師が悪い」は私怨である。高校時代の英文法の教師がクレイジー過ぎて内乱が発生、授業崩壊を起こしていたので、英文法どころではなかった。何の勉強でもそうだが、教師がおかしいとただただ時間を無駄にするだけなので、悲惨である。

 

文法が役に立つ実例

今私が勉強しているのはポルトガル語なので、敬愛するペソア大先生の一文を引用したい。

 

A literatura é a maneira mais agradável de ignorar a vida.

 

文法の基礎を押さえていれば、

・éはser動詞。先頭の名詞literaturaと後方の文を繋いでいる

・優等最上級が使用されており、maneiraを修飾している

と順番に解読出来るので、あとはliteratura, maneira, agradável, ignorar, vidaなどの語を辞書で引けば、何が書かれているのか理解できる。

何もネイティヴを掴まえて教えてもらわなくても、初歩的な文法を自分で勉強するだけで、詩人が残した文章を読む事が出来るようになるのである。

文法を整理して教科書を書いた人は讃えられるべきである。

 

また、綴りが英語に似ている語もあるが、ポルトガル語とは語順が異なる。

英語に直訳すると、下記の通り。

 

Literature is the most agreeable way of ignoring life.

 

英語の文法だと名詞wayが形容詞agreeableの後に置かれる。

ポルトガル語の文法を勉強していないと、何故、英語のwayに相当するmaneiraが、maisの前に置かれているのかがわからないし、どの要素が何を修飾しているのかも理解出来ない。

 

日本の外国語教育を文法・読解偏重だと批判し、おかしな方向に動かそうとする流れがあるようだが、文法が出来なければまともな文章は読めない。まともな文章が読めず書けず片言だけの外国語を話せたところで、一体何になるのだろう?

何のために外国語を学習するのか。

外国人に道を聞かれた時の為?それとも、土産屋で売り子をする為?