リスボンに憧れながら世界の片隅で砂を掴む

本、ポルトガル語学習、海外移住よもやま話。(※在住国はポルトガルではありません。)

Twitterを捨てて本を読もう。金言を求める現代人へ。

今回の記事は、Twitter歴約10年の元ツイッター廃人である私が、Twitterをやめようかどうか迷っている人に捧げたい。

 

書き始めた途端にタイトルから離れるが、まずはペソアについて。

 

私がポルトガル語を勉強しようと志したきっかけ……それは、フェルナンド・ペソアというポルトガル・孤高の詩人との出会いである。彼の作品は日本語にも訳されて出版されており、私も『[新編]不穏の書、断章』(澤田直訳、平凡社)の電子版を読んでいる。また他に、英語版"The Book Of Disquiet: The Complete Edition"(Margaret Jull Costa訳, Jerónimo Pizarro編)電子版も併せて読み進めているところである。

ペソアの書いた散文に魅せられ、日々ペソアにどっぷりなので、ペソアについて存分に語りたくてブログを立ち上げたぐらいなのだが、彼の構成した宇宙は複雑で広大、開けても開けても終わりが見えないマトリョーシカのようで、素人には中々手が出せない。ペソアの散文を毎日読んでいるうちに、段々とペソアに取り憑かれ、まるで夢の中を歩いているような、おかしな感覚になる。まるで、シェイクスピアハムレット研究者のようである。「ハムレットは本当に狂っていたのか、はたまた狂気を演じていただけなのか。」等とハムレットに没頭し、ハムレットの狂気の中へと引き込まれ、ああだこうだと十人十色の解釈を考え出す。それに対し、オスカー・ワイルドが残した、ユーモラスな問いかけが面白い。

 

“Are the commentators on 'Hamlet' mad, or only pretending to be?”

ハムレットの注釈者は狂っているのか、それとも狂ったふりをしているだけなのか?)

 

さて、前述の平凡社版の『[新編]不穏の書、断章』の巻末エッセイで、池澤夏樹氏がペソアの散文について以下のように書いているのだが、

 

次に、彼は断言する。

箴言とは断言である。そこに疑問や反論の余地はない。絶対の思想の絶対的独裁者の言葉を読者はひれふして受け入れる。対話や弁証法が割り込む余地はない。

 

 

これを読んで思い出したのが、Twitterである。

 

Twitterと一口に言っても、アニメクラスタから技術者クラスタ、子育てクラスタ等、様々な集団が存在しているので一概にどういうものだと断定する事はできないのだが、私がTwitterから身を引いた要因の一つが「強い言葉が蔓延する傾向」であった。

例えば、日本死ねである。(幸い、この呪詛はクラスタ違いの為か私のアカウントまでは届かなかったのだが、ニュースで目にしたので例に出した次第である。)

上記のような強い言葉の他にも、社会的勝利者・成功者など「強者」による有難い訓示もよくシェアされる傾向があった。また、自己啓発本やビジネス本のタイトルや見出しのような、キャッチな言葉も人心を惹きつけるようである。

 

だが、誰だか知らない一般人が吐き出したキャッチな言葉やら呪詛やらを有難がる事に、一体何の意味があるのだろう?

 

(ある意味でブログを書いて全世界に公開している自分自身をも否定しかねない言葉な上、万が一Twitterに戻った時に「おんどれ、どのツラ下げて戻って来たんじゃあ!」と良心が疼くので書くかどうか迷ったのだが……。肥溜怨念地獄のようなTwitterとは違い、ブログは頭と時間と気力を使いながら真面目に書いており、また、有難がられる事を目的としている訳でもないので、自己否定にはならないだろう。)

 

恐らく、Twitterで強い言葉に惹かれる人々は、日々を生きる心の支えとなる、箴言、格言を求めているのではないだろうか。

一昔前までは、多くの人々はそれを書籍の中に求めていたのだが、今はアルファツイッタラーや人生の成功者の呟き、そして「見知らぬ他人の強力な言葉」で代替しているのではないだろうか。

呟きを読み、激しく同意し、リツィートボタンを押して周囲に広める(「この人が言っている事は私も共感できる!社会的に正しい!」)。本など読まなくても、無料で視界に入る、気軽にシェアできる「名言」である。

だが、その質はと言えば、わざわざ他人に教え広めるようなレベルではない。(中には本物の詩人が呟いている場合もあるが、それはまた別の次元の話である。)

また、個人が呟く強い言葉には、「質」以外にもう一つ難点がある。それは、言葉に含まれる「毒」である。

 

(1)マキシミナ11世 @Maximina11

「起きて食べて寝ておしまい、それが良い一日の過ごし方?獣と一緒ですね!」

 

(2)ハムレット 第四幕四場より

Hamlet "What is a man, if his chief good and market of his time

Be but to sleep and feed? A beast, no more!"

(最も良い主な時間の使い方がただ食って寝るだけだとしたら、人間とは何だ、獣に過ぎない!)

 

上記(1)(2)を見比べて頂きたい。(2の翻訳が下手くそだな!と思った人は、英文だけ見てください。)

意味の主旨は同じなのだが、(1)の方がより腹立たしい印象ではないだろうか?

(1)はわざと「人間とは何か」の部分を取り去り、まるで発言の相手や読者に向かって「獣と一緒ですね!」と言っているような、思いやりのなさを表したせいもあるだろう。

だが、それ以上に、どこの馬の骨だかわからない人間が、偉そうに人を獣呼ばわりしている」という事に対してカチンと来るのではないか。

(2)は表記の通り、ハムレットからの抜粋なので、腹の立てようもない。腹を立てたとしても言い返すハムレットは実在の人物ではなく、また、著者は遠い昔に死んでいる。

そう、ハムレットが多少どぎつい事を言っていても、角は立たないのである。

 

つまり、詩人でも何でもない素人が放った強い言葉は、社会問題を公に引っ張り出したり、その場限りの共感で心をちょっと慰めるのに多少は役に立つかもしれないというだけで、ほとんどは役に立たないだけでなく、最悪の場合、読者が言葉の中の毒を読み取って不快感を覚える事になる。そして、発言者に一言物申さねば気が済まぬという人が現れてしまうと、泥沼の合戦状態になり、タイムラインは第二次世界大戦スターリングラードと化すのである。

 

だからこそ。

精神の健康のためには、Twitterで日々心を磨耗させるよりも、読書をする事を勧めるのである。意味のない憎悪や欲望に取り憑かれ、怨嗟を垂れ流し、一時的な共感による慰めを得るよりも、素敵な本を読んだ方が絶対に良い。ペソアハムレットに取り憑かれた方が断然マシである。(書くまでも無いことではあるが……読む本については、文学でも哲学でも歴史でも、しっかりとした骨のある本を選ばなければならない。)

それに何より、作品の「抜粋」の周囲に存在する世界の広大さや濃密さ、面白さ……それを知らずして人生を終えるなんて、もったいないではないか、と私は思う。

 

最後に。

偉そうなタイトルをつけてしまい、少し恥ずかしい。反省している。