リスボンに憧れながら世界の片隅で砂を掴む

本、ポルトガル語学習、海外移住よもやま話。(※在住国はポルトガルではありません。)

シーナ・ブラックホール『実存主義者』

わたしはどこに住んでいるの?

月曜日から日曜日のあいだに

カラスの眼の網膜の中に

わたしは青い風船の下でチクチクする薄膜

 

いつも、塩はこぼれる。食器棚の影が

床を横切る。

 

シーナ・ブラックホール実存主義者』。翻訳は私が行った。

原文は下記Scottish Poetry Libraryページ内で読めるので、英詩に興味のある人は是非読んでみて欲しい。解釈は簡単ではないが、短く、非常に印象深い詩である。私の怪しい翻訳よりも原文を音読する方が、散りばめられた韻も味わえて楽しい事間違いなしである。

この詩は2007年のBest Scottish Poemsの一つとして選ばれたものであるが、編者及び作者のコメントも記載されていて解釈の助けになるだろう。

 

www.scottishpoetrylibrary.org.uk

 

さて、突然スコットランドの英詩を引っ張り出して来たのだが、私は元々英詩が好きだったわけではないし、この詩も「何か面白い詩はないだろうか。」とネットサーフィンをしていてたまたま見つけたものである。

 

尚、英詩は昔勉強した事があるのだが、氷河期の就職戦線で半ば死にかけた心に

"How happy is he born and taught

That serveth not abother's will"

という詩文の水を撒かれても、何も響かず芽生ず育たず終いであった。理論もすっかり忘れてしまった。「そんなことより就職が見つからない、この先どうすれば良いのか。」という気持ちの焦り、エントリーシート作成やら何やらで削られた睡眠と体力の不足が、心の栄養を吸収するための貴重な時間を食い潰してしまった。転落への第一歩である。

 

話が逸れてしまった。『実存主義者』に戻ろう。

タイトルは他に訳しようがないのでそのまま実存主義者としたが、原文だと"Existentialist"。冠詞は無い。

著者Sheena Blackhall氏自身の体験、思想を表現した詩である。

Sheena Blackhall氏はスコットランドの詩人で、英語とアバディーンシャーのスコットランド方言で詩を書き、数冊の本を出版している。(『実存主義者』ではアバディーンシャー方言は使用されていない。)

 

詩の解釈について、私が出来る範囲で書いてみようと思う。

 

著者は詩の後半部分から解釈をしているのでそれに倣う事にするが、その後半二行「いつも、塩はこぼれる。食器棚の影が床を横切る。」の部分は、詩人の幼少期の記憶である。(恐らく「実存主義者」ではなかった頃の。)「塩」と「食器棚」には冠詞"the"が付されているが、「わたしが小さい頃のあの塩」「おばあちゃんの家にあったあの古い食器棚」という意味が内に含まれている。何故「塩」がここで登場するのかというと、西洋文化では塩をこぼす事は不吉であると古くから言われており、特に英国(アイルランドを含むか否か、他欧州諸国にも同様の習慣があるかは不明)では、「塩をこぼした際にはひとつまみの塩を左肩の上へ、悪魔の目玉めがけて投げつけると良い。」という迷信があるらしい。著者の母親のプロテスタント的宗教観や、幼少期の著者を取り巻く環境、そこにはいつも暗い「悪魔」の影が見え隠れしていたのだろう。だから、塩はいつもこぼれ、食器棚からは不吉な影が床を這っていた。この過去の記憶に関する部分を、行をあけた後半に持ってくることで、現在と過去の対比がなされている。また、「悪魔」はノスタルジックな「思い出」の中へと封じ込められてしまった。

 

そして、残りの部分、最初の四行について。

こちらは著者曰く「最初の三行は無我と純粋な空(虚空)の地について言及し主体と客体の非二元論の記述を試みた」との事である。また、道元の"The whole moon and the entire sky are reflected in one dewdrop on the grass"という言葉が、この詩(『実存主義者』)が伝えようとしている事に近いと引用しているが、「全月も弥天も、草の露にもやどり、一滴の水にも宿る」(『正法眼蔵現成公案』)の英訳のようである。仏教はそれほど興味が無いのであまり詳しく勉強した事が無いのだが、「草の露や一滴の水の中にも、月や星空がありのままに映るように、悟りの光は誰の心にも映る」という事らしい。   

 

さて、一行目は問いを立てる事から始めており、著者のコメント通り、非常に哲学的である。

二行目、三行目は一行目への答えである。月曜日から日曜日の時空の中に「わたし」、カラスの目玉の中に映っている「わたし」。一見、拠り所の無さに不安を感じるが、仏教的視点から見るとその意図する所が理解できる。永遠に不変の本質などは存在せず、諸行無常なのである。

四行目の翻訳と解釈が一番難しい箇所であった。原文だと"I am a skin of prickles under a blue balloon"であるが、何故ここで急に青い風船が出てきたのか、はっきりしないので想像で語るしかない。著者のコメントによると、「私は老化、非永久性、そして病気についての教訓を学んでいた、私たちの誰もがしなければならないように。『わたしは青い風船の下でチクチクする薄膜』。知的に、仏教の発見は石の下から純粋な光の中へ這い出すように感じられた。」との事である。(兄の死やアバディーンチフス事件を乗り越えての言及だろうか。)

いつかは失われる「わたし」という儚い存在、それを表現する為に「風船」としたのだろうか。"blue"を選んだのは、頭文字が"balloon"同様bだから見かけ上の頭韻を踏みたかったのかもしれないし、『Blue Balloon (The Hourglass Song)』(青い風船 砂時計の歌)と関連があるのかもしれない。

また、skinは皮ではなく薄膜と訳した。prickles(トゲ)にチクチク刺されている、いつ破裂するかわからない風船、というイメージだろうか。

 

 

ここまで記事を書くのに数時間を要してしまった。

詩を読みながら考えていた事が整理出来たが、訳の正解がわからないので(そもそも正解はあるのだろうか)、どうも悶々としてしまう。

文学を理解する為には縦にも横にも網を張らなければならない。世の中わからない事だらけで目玉がグルグル回るが、面白い詩があちらこちらにあるものだなあ、と感慨深い。