孤独を詠む、蛸を喰む。シェリーと井伏、月を愉しむ詩。
吹く風が秋めいてきた。そろそろ中秋である。
中秋と言えば月と団子。ウィキペディアで「中秋節」と検索すれば、宋の詩人・蘇軾が中秋の月を宝玉の皿に喩えた詩について書かれている(暮雲收盡溢清寒,銀漢無聲轉玉盤。此生此夜不長好,明月明年何處看。)。
だが私には残念ながら漢詩を分析する教養とわざわざ勉強する程の興味がないので、月に関する英国の英詩と、中秋に詠まれた日本語の詩を一つずつ紹介する。
パーシー・ビッシュ・シェリー 『月に』
To the Moon (by Percy Bysshe Shelley)
I
Art thou pale for weariness
Of climbing heaven and gazing on the earth,
Wandering companionless
Among the stars that have a different birth,-
And ever changing, like a joyless eye
That finds no object worth its constancy?
II
Thou chosen sister of the Spirit,
That gazes on thee till in thee it pities...
月に。
I
汝、疲れ青ざめているのか
天へと昇り地を眺めることに、
友も無く彷徨うことに
異なった生まれを持つ星々の間を……
そして絶えず位置が変わり続けることに、索莫たる眼の如く
留まるに値するものが見つからずに。
II
汝、選ばれし聖霊の妹よ、
聖霊はお前を見ている、お前を哀れと思うまで……
(日本語訳は私が昔のメモを参考に行った。)
パーシー・ビッシュ・シェリー(1792-1822)はイングランド・サセックス出身の詩人である。"The Necessity of Atheism"(無神論の必要)を書いてオックスフォード大学を追放されたとの事である。今こうして調べてみると思想的にもとても興味深い詩人なのだが、学生の頃に詩を二篇読んだだけで通り過ぎてしまった。惜しいことをした。時間があったら他の詩についても調べてみたい。尚、日本でも詩の翻訳等が多数出版されているようである。
ところで、今回この記事を書く為に、インターネットで下調べをしていて初めて気が付いたのだが、この詩は別の編者によって出版された、異なる形式のものがあるらしい。本記事では、私が持っている研究社の詩集に準拠するが、第二スタンザの二行はW. M. Rossettiが1870年に発行したものに掲載されているとの事である。(時間とお金があったらもっと詳しく突っ込んで調べるのだが……。)
さて、注釈によると、この詩は「月を孤独な自我の象徴としている」との事である。
和訳は原文の改行の都合で意味が通りにくいので、第一スタンザのみ下記にわかりやすく内容を書き出します。
天へと昇り地を眺め、共に歩む友も無く、異なる生まれの星々に囲まれ彷徨い続ける、月。
「見るべき価値のある物」が見つからない寂しさの中で動き続ける目のように、その位置を変え続ける、月。
その「放浪」に疲れ果て、青ざめているのか?
改めて読むと、私自身が長らく置かれている現状のようで、心にぐさりと突き刺さる。自己を見つめれば見つめる程、孤独に青ざめる。1820年の作であるが、シェリーはどのような状況でこの詩を書いたのだろうか。どうも、私同様アップダウンの激しい人生だったようである。
また、月に関しては白居易も寂しい詩を残しているが、やはり詩人に孤独さを感じさせる天体なのだろうか。他の星々とは異なる大きさで、闇の中で静かに浮いているその姿……賑やかさ、華やかさとは遠い、光りながらも陰ある存在。
地球上の一部地域では、中秋は一族で集まり月を見ながら賑やかに過ごすようだが、そういった「月の見方」とは大きく感性が異なる。月に対して投影するものや、月を見る体験が個人的なのか集団的(他者との共有)なのか、の違い。
どちらでも個人の好きにすれば良いのだが、日陰に生きる闇属性の身としては、ワッショイワッショイ賑やかな集団には関わりたくない。
月は、独りで見ていたい。
そんな「独り時間」を愉しむ詩へと、バトンタッチする。
『逸題』 井伏鱒二
今宵は仲秋明月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあはせ
よしの屋で独り酒をのむ
春さん蛸のぶつ切りをくれえ
それも塩でくれえ
酒はあついのがよい
それから枝豆を一皿
ああ 蛸のぶつ切りは臍みたいだ
われら先ず腰かけに坐りなほし
静かに酒をつぐ
枝豆から湯気が立つ
今宵は仲秋明月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあはせ
よしの屋で独り酒をのむ
(新橋よしの屋にて)
『厄除け詩集』収録。
シェリーの詩とは全く方向性の異なる作品なので一つの記事にまとめるか迷ったのだが、文化圏と宗教観、時代の違いと詩人の個性が際立って面白いので、このまま掲載した。
同じ「月」と「独り」を詠んでいても、受ける印象は全く異なる。一人の詩人には、一つの世界がある。(多数の世界を構築しようとした詩人もいたが。)
ところでこの詩、ちょっと節でもつけて歌いたくなるような、独特の味わいがある。飾らない、気取らない、下町文化的な風味。シェリーの詩と比べると、月から地面に引っ張り戻されたような世俗感。また、「今宵は仲秋明月……」の部分は冒頭と末尾でリフレインさせているのが音楽的で面白い。
リフレインさせているぐらいだから強く印象に残る「仲秋明月」であるが、新橋よしの屋から月が見えていたのかどうかはわからない。恐らく見えていなかっただろう。ただ単に、仲秋明月にかこつけて飲んでいた酒好きかもしれない。何故って、あまりにもその酒と肴の描写が美味そうだからである。蛸のぶつ切り、ほかほかの枝豆、熱燗。
「まあまあ、今夜は仲秋明月なのだ。手元のあれこれはそこまでにして、初恋を思い出しながら独り酒でも飲もう……」、そんなふうに、新橋の夜空に向かって独り言ちながら、よしの屋へと歩く。
但し、万障繰り合わせるのは「われら」なので、独りぼっちの孤独は感じられないし、それを寂しがったり嘆いたりしているわけではない。よしの屋に入れば、酒を持ってきてくれる春さんもそこに居る。
そして、いい頃合いに店を出れば、まんまるいおっ月さんが、蛸みたいに赤くなった酔っ払いを見下ろしているのかもしれない。
月を眺めながら、酒をちびりちびり、蛸のぶつ切りを食べたくなる詩である。読んでいるだけで、なんとなく酔ってしまいそうだ。
(しかし、蛸はとても高いので、買えません……。)