リスボンに憧れながら世界の片隅で砂を掴む

本、ポルトガル語学習、海外移住よもやま話。(※在住国はポルトガルではありません。)

ヘルマン・ヘッセ『クヌルプ』。何もかもあるべきとおりに。

「何者にもなれなかった。」という考えに苦しめられている人に勧めたいのが、ヘルマン・ヘッセ『クヌルプ』である。

 

激務で心身がボロボロ、キャリアもコネクションも形成失敗。おまけに配偶者は反出生主義者となり、この人生で「親」になる事は無くなった。何もかもが中途半端、気づけばマイノリティ、最早誰にもその存在が認知されない無色透明な存在。早死にしようと思って酒を飲んでみるも、コップ一杯以上飲むと持病が悪化するので、酒に溺れる事すら出来ぬ。嗚呼情けない。自分は何のために生まれてきたのかと絶望、目の前の世界は闇に包まれた。

 

少し前の私である。今思い出してもゾッとするし、うっかり真面目に読んでしまった人も気分が悪いだろう、かたじけない。

 

このように、真っ暗闇の中で一人のたうち回っていた私に、輝く救いの糸を垂らしてくれたのが、ヘルマン・ヘッセ『クヌルプ』であった。

「ぼくは働く才能を持たないんだ。」の名言を残した作品である。

 

『クヌルプ』は、野良猫のように生きる流浪の青年「クヌルプ」の生き様を、「早春」「クヌルプの思い出」「最期」の三部構成で描いた作品である。美しい自然の描写や郷愁、ラテン語学校、職人、詩文、そして最期……ヘッセらしい要素がきゅっと詰まっている。

 

「早春」「クヌルプの思い出」では、クヌルプが、美しい猫のように人々に愛され、あちらこちらをふらふらと、歌い、踊り、行く先々の住民たちをちょっとずつ喜ばせながら、旅をして歩く様子が描かれている。

 

クヌルプは元々はラテン語学校に通う優秀な生徒だった。彼は、ある少女の「言葉」によりラテン語学校を退校する事になるのだが、彼女の言葉が無情な「嘘」であった事が発覚した時、少年の柔らかな心には深い傷がつき、その不治の傷が、彼の生き様を決めてしまった。クヌルプは何かに縛られる事を極端に嫌がるようになり、職にも就かず、定住もせず、心地良い放浪を続けるようになった。時には、小さな「嘘」をどんな扉でも開けてしまう鍵のように使って、人の心の内側にするりと入り込み、人を喜ばせ、笑わせた。「嘘」が人生の転機になってしまったクヌルプだが、真実を明るみにして人を悲しませるような、無粋な事はしなかった。彼は何も持っていなかったが、「粋」で、美しかった。

 

「ぼくはもう人間のことばを信用したり、ことばで束縛されたりしなくなった。もう二度としなくなった。自分にふさわしい生活を送った。自由と美しさに事欠くことはなかったが、始終ひとりぼっちだった」

 

 上記は最終章「最期」の中の、クヌルプから幼馴染みへの言葉である。「何者にも束縛されない自由」は、ひとりぼっちであるという事と、表裏一体である。

何だか私自身の人生のようだと思った。クヌルプのように他人を喜ばせたりはしていないし、ラテン語学校に通うような優秀さも無いので、実際にはクヌルプ以下なのだが、他人と深く関わる事を避けてきた結果どうなったか……私には、痛い程、わかってしまう。きっと私もクヌルプのように、最後には故郷も失い、思い出だけを抱えて、一人死んでゆくのだろうな……と思った。

 

ふたりは、神さまとクヌルプは、互いに話しあった。彼の生涯の無意味だったことについて。また、どうしたら彼の生涯が作り変えられ得ただろうか、ということについて。なぜあれやこれやがああなるよりほかなく、なぜ別なようにならなかったかということについて。

 

いや、正確には、クヌルプは完全にひとりぼっちではなかった。彼は自身の過去について、神と対話しながら(無宗教者から見れば、これは内なる自己との対話であろう)、苦しみや後悔を解きほぐしてゆく。最期へ向けて。

 

「何にもなれなかった」と嘆く人々は、この後悔渦巻く対話の中から抜け出せないのであろう。「あの時、ああしていたら……。」と。

 

「嘆いたとて何の役にたとう?何ごとも良く正しく運ばれたことが、何ごとも別なようであってはならなかったことが、ほんとにわからないのかい?ほんとにおまえはいまさら紳士や職人の親方になり、妻子を持ち、夕方には週刊誌でも読む身になりたいのかい?そんな身になったって、おまえはすぐまた逃げ出して、森の中でキツネのそばに眠ったり、鳥のわなをかけたり、トカゲをならしたりするのじゃないだろうか」

 

これは神からのクヌルプへの言葉であるが、これは宗教を超えて、「たら・れば」の中で苦しむ人々皆の心に響く事だろう。

もし私が今違う人生を歩んでいたら、暢気にポルトガル語を勉強したり本を読み漁ったりは出来ないだろう。キャリアもない、子どももない、束縛のない状態だからこそ、自分の時間とお金を自由に使えるのである。無駄に人間関係に悩むこともない。

ポルトガル語にも出会えず、本を読む時間も体力もなく、お金もない……考えるだけで背筋が凍る。本を読まない人生を生きるなんて、考えられない。

 

「わたしが必要としたのは、あるがままのおまえにほかならないのだ。わたしの名においておまえはさすらった。そして定住している人々のもとに、少しばかり自由へのせつないあこがれを繰り返し持ちこまねばならなかった。わたしの名においておまえは愚かなまねをし、ひとに笑われた。だが、わたし自身がおまえの中で笑われ、愛されたのだ。おまえはほんとにわたしの子ども、わたしの兄弟、わたしの一片なのだ。わたしがおまえといっしょに体験しなかったようなものは何ひとつ、おまえは味わいもしなければ、苦しみもしなかったのだ」

 

これも神の言葉であるが、アブラハムの宗教を信仰しない人にとっては理解し難いかもしれない。「あなたは神から愛されているのだから、あなたもあなた自身を愛しなさい。」というような、自己受容の教えが根底にある。この箇所については、宗教の影響が大きいので受け入れられない人もいるかもしれない。

だが、藁にもすがりたかった私は「救ってくれるのであればマニ教でも何教でも」という心境だったので、特に抵抗感や嫌悪感は無かった(だが新興宗教はお断りである)。生来のネガティヴさが海外移住と生活のアップグレードである程度改善されたとはいえ、それまでは自己評価が低くとても苦しい人生を送ってきたので、この自己受容の考え方は衝撃だった。「何の役にも立たず、何者でもない」自分を肯定しても良い、あるがままを受け入れる……それは、革新的な考え方だった。

 

最終章を読了したその日を境に、私は苦しみから開放された。

 

「何者にもなれなかった。」と悩んでいたのがバカバカしくなったし、「何者かになれ!」「役立たずに価値はない。」という思想・価値観を押し付けてくるような人々を軽蔑するようになった。そんな人たちに一体人類の何がわかると言うのだろう?多くの人々を苦しめる言動を行なっている時点で、「役立たず」どころか人類世界に害をなす「有害物質」であろう。役立たずの方がまだだいぶマシである。

 

そもそも、宇宙規模で考えたら、人間の営みなど塵以下である。

一度きりの人生、無駄な苦しみを抱え込まず、和かに生きてゆきたいものである。

  

 「何もかもあるべきとおりです」

 

 

※引用は全て『クヌルプ』(高橋健二訳、新潮文庫)より。