言語に美しいも汚いも無い。汚れているのは心である。
それ、本当に中国語ですか?
「中国人観光客が騒がしい。中国語は本当に煩い言語だなあ、だから嫌いなんだ。」
インバウンドで沸いていた頃の日本からよく聞こえてきた台詞である。
だが、ちょっと待って欲しい。
その「中国語」とは、一体何を指しているのか。
まさか知らない人はいないと思うが、中国は単一民族国家ではない。学校では普通話(中国標準語)教育が行われているので、中国語以外の言語や方言は衰退しつつあるが、それでも多くの話者がおり、広東語や客家語など、標準語とは大きく異なる方言も現存している。(広東語などは中国語とは異なる言語だと主張する人もいる)。日本人は標準語を「北京語」と呼んでいるが、北京には北京の方言が別に存在しており、中国語では「北京話(北京語の意)」と呼ばれる。
また、台湾には国語(中国標準語とは使用する漢字が異なる)、台湾語(国語とは異なる)、他少数民族言語等が存在する。香港・マカオでは主に広東語が話されている。
加えて、世界に散らばる華僑が、それぞれの訛りを持った中国系言語を話すのである。
冒頭に戻る。
騒がしかったのは本当に中国人観光客だったのだろうか?
話されていたのは中国語(標準語)だったのだろうか?
マスメディアの印象操作による、偏見ではないだろうか?
日本語の場合
視点を変えてみよう。
1、「佐清さま、これをお受け取りくださいまし。……ふつつかものでございますけれど……。」
2、「おんどれ、ドタマかち割るぞゴルァ!」
1をゆっくり高い声で丁寧に音読した場合と、2を腹の底から全力で叫んだ場合、日本語を全く知らない外国人が、同一の言語だと判断できるだろうか。
1を聞いた人は、おっとりした言語との印象を持つだろう。だが、2を聞いた人が「これが日本語ですよ。」と言われると、「日本人はこんな話し方をするのか……。」と誤解するかもしれない。(1も2も、現代の標準的日本人の話し方ではないが。)
つまり、言語そのものと関係の無いところで、言語が「美しい」か「汚い」か判断されてしまう可能性がある、ということである。
言語への偏見は外国人への偏見と繋がっている場合が多い。
煩い言語、汚い言語、美しい言語、簡単な言語、神聖な言語……そんなものは言語学的には存在しない。
(※簡単な言語について、相対的に学び易い言語の存在はあると思う)
そういった形容は、全て個人的な主観・偏見によるものである。
どんなに美しいとされる言語でも、酷い使い方をすれば、醜い汚泥のような言葉となり場を汚すのである。
勿論、発音方法や音域により、受ける印象は言語毎に変わるとは思うが、それを個人的な偏見に結びつけるべきではないと、私は思う。
「あなたの話す言語が汚いと言われたら、あなたはどう思いますか?」