リスボンに憧れながら世界の片隅で砂を掴む

本、ポルトガル語学習、海外移住よもやま話。(※在住国はポルトガルではありません。)

ルッキズムの侵食による「イケメン京極堂」

イケメンな変わり者が大活躍!日本の探偵小説シリーズをはじめから

 

hontoのブックツリーを眺めていたら、上記のようなタイトルと、京極夏彦の『姑獲鳥の夏』のカバーが目に入った。

京極堂シリーズの中で美青年と言えば探偵・榎木津だが、どうも彼の事を指しているわけではないらしい。ツリーの中を覗いてみると、『姑獲鳥の夏』の他に、先日読了した有栖川有栖『46番目の密室』もある。他に挙げられている3作品は読んだ事がないので何とも言えないのだが、京極堂シリーズと火村シリーズの主人公は「美青年」だっただろうか?そのような記述は無かった気がする。顔立ちが整っているだとか、異性からモテる等の記述はシリーズのどこかにあるかもしれないが、「イケメン」とは……?

 

そもそも、「イケメン」と言う言葉が極度に薄っぺらい。そんな薄っぺらい言葉で、好きなシリーズの主人公たちを纏めないでもらいたい、と思うのは私だけか。

「イケメン」と言えば、もやしのように痩せていて、染色した髪の毛をツンツンに立て、眉毛を細く整えた……接待を伴う飲食店のスタッフや、日本国産ファンタジーRPGゲームの主人公のような姿が……そして、「ラー麺つけ麺僕イケメン」が脳裏を過ぎる。

そんな言葉で釣らなければ、本は売れないのだろうか。

「イケメン」の登場を目的として読まれるのならば、それは「キャラクター萌え漫画」や「乙女ゲーム」と一緒ではないか。(乙女ゲームに出てきそうな京極堂を想像すると、気持ち悪くて鳥肌が立つ。)

誰がどんな目的でどんな妄想をしながら読もうが読者の勝手なのは確かだが、何でも外見重視の「イケメン」「美少女」「美しすぎる」に持っていくその姿勢はいかがなものか。(※これは日本に限った話ではない。)

 

そこで思い出したのが、先日観た映画版『壬生義士伝』(原作は浅田次郎の小説)への違和感である。

役者陣に厚みがあり良い映画なのだが、佐藤浩一が演じる斎藤一が、身請けした元遊女のぬいについて「どうだ、醜女だろう。」と言い放つシーンがある。だがそのぬいを演じているのは、中谷美紀である。どこが醜女なのか。江戸末期の美醜の基準がどの様であったか知らないが、中谷美紀で醜女はないだろう。中谷美紀の演技に問題があるわけではなく、ぬいという存在の儚さを上手く演じていたとは思うが、このキャスティングは引っかかる、喉に刺さった魚の骨の様に。

 

果たして、文学作品の主要登場人物が「イケメン」「美女」である必要があるのだろうか。そもそも、作品内にその様に書かれていないにも関わらず「イケメン」や「美しすぎる」などのキャッチをつけて売り出すことは、作品への侮辱ではないか、と思うのだが。

映像作品や漫画と異なり、ルッキズムによる支配を逃れられるのが文学である。「画面に映える俳優が、人生映えない設定の登場人物を演じる」事も無い。登場人物は全て読者の想像の中に、作家が紡いだ文字によって描き出されるのである。そうやって出来上がった「登場人物の姿」は、「イケメン」や「美女」である必要がない。

三者がおかしな外見上のレッテルを貼り付けることは、空想の邪魔にしかならない。

 

 

文学作品に、「イケメン」や「美女」の無駄な後付けラベルは不要である。

主人公の顔が美しくないからといって、名作の輝きが消え失せるわけがないのだから。

 

Do you think, because I am poor, obscure, plain, and little, I am soulless and heartless? You think wrong!—I have as much soul as you,—and full as much heart!

Jane Eyre (by CHARLOTTE BRONTË)