リスボンに憧れながら世界の片隅で砂を掴む

本、ポルトガル語学習、海外移住よもやま話。(※在住国はポルトガルではありません。)

有栖川有栖『インド倶楽部の謎』。カレーが食べたくなる本。

有栖川有栖の国名シリーズ『インド倶楽部の謎』を読み終わった。

 

国名シリーズについて有栖川氏は「エラリー・クイーンに倣って題名に国名を冠したものを有栖川有栖版の国名シリーズと称してきた。」と、あとがきで記しているが、私はエラリー・クイーンを読んでいないので、エラリー・クイーンの国名シリーズがどんなものだったのか、それと比べて有栖川氏の国名シリーズがどうなのか、などと論じる事は出来ない。「ミステリファンではないから……。」と言い訳してないで、いい加減にエラリー・クイーンを読んだ方が良いのかもしれない。

 

エラリー・クイーンとは比較できないので、他の有栖川作品との比較について。

私は今までに『鍵の掛かった男』、『狩人の悪夢』そして『新装版 46番目の密室』を読んだのだが、それらとは毛色の違う作品になるのではないかと思う。強いて言えば、『鍵の掛かった男』に近いのではないだろうか、「殺人トリックに重きを置いていない」という点に於いて。有栖川氏曰く「火村・アリスのシリーズには短編作品が多いので、数年前から長編作品を増やそうとしており、それにあたって意識しているのは、作品ごとに本格ミステリとしてのスタイルを変えることだ。」との事なので、本格ミステリという枠組みの中で様々な試みがなされているのだろう。同じシリーズでも読む作品毎に新たな世界、異なるスタイルを楽しむ事ができるのは、読者としては非常に嬉しいものである。

 

カレー友だち・火村英生

いきなりミステリと関係ない話になるが、火村シリーズ一作目『46番目の密室』以外は、食べ物、食事の描写がとても上手いと思う。(『46番目の密室』は、残念ながら食べ物についての印象が非常に薄い。)

グルメ小説ではないので、その部分に異常に力が入れられていてコテコテの表現がなされているわけではないのだが、出てくる食べ物、料理がどれも美味しそうなのである。私自身が日本食恋しさに食事シーンに異常に執着しているわけではない。証拠として、洋食の描写も非常に美味しそうに感じられる。以下、火村とアリスがある日のフィールドワーク中に食べることになるコース料理のメニューを書き出してみた。

 

・杏ジュース

・濃厚な豆のスープ

・蛸と鯛のカルパッチョにチーズを添えたもの。シーフードは、恐らく明石産

・スパイスの利いた白身魚の炭焼き

・極上チキンカレーとナン

・血の滴るような神戸牛のステーキ

・マンゴーをベースとしたシュリカンドと苺ムース

 

羨ましくて涎が出てくる。中でもカレーが美味しかったらしく、「カレーは極上だった。これまで食べたことがないチキンカレーで、味の深みがまるで違う。さながらスパイスの交響詩である。」と書かれている。嗚呼、どんなに美味しいカレーなんだろうか。自分で作ったカレー以上に美味しいカレーに出会った事がない(そもそも外食ではあまりカレーはオーダーしない)ので、そこまで美味しいカレーがどんなものなのか、殺人事件の犯人以上に気になる。

カレーについては、以下のような記載がある。

 

生田署の食堂のものとはまるで別物だし、ライスではなくナンで食べるとはいえ、またしてもカレーと対面してしまった。まったくもって火村英生は、カレーを呼ぶ男である。大学時代の初対面の時、彼が学生食堂で奢ってくれたのもこれだった。

 

今晩はチキンカレーを作ろうか……。

 

また、神戸の街の様子についても細かに書かれており、まるで神戸の異人館周りを観光しているような気持ちになれる。『鍵の掛かった男』では大阪・中之島が舞台となっており、そちらの描写もとても良かった。このように、ミステリ要素や蘊蓄以外の部分についても読んでいて興味をそそられるのが、有栖川作品の良いところだと思う。とても味わい深い。

 

ハリボテではない登場人物たち

登場人物の描き方の綿密さも、有栖川作品の魅力である。作風がハードボイルドではないので登場人物が無味乾燥ののっぺらぼうになる傾向を避けられているのかもしれないが……『46番目の密室』と比べて、有栖川氏の人物描写力が明らかに上達している。

本作は、神戸異人館群の中の一つ「インド亭」での小集会からスタートするのだが、「何だ、また古臭い、集会から始まる殺人事件か。どうせ気難しい老作家がホストで、周りは編集者だとか、ミステリ研究会の大学生だろう。」と思ったら、それは大間違いである。ひとりひとりの職業は現代的・現実的なものであり、性格、外見、行動パターンが、しっかり描かれている。

それと同時に、作中の「作家アリス」の観察眼も向上しているように感じられる。数々の事件を探偵役の火村と共に乗り越えてきた経験が、「作家アリス」の観察力を磨いたのだろうか……しかし、そう考えると、火村シリーズはサザエさん方式で、主役二人は歳を取らない「永遠の34歳」なので、時空の捻れが気になってしまう。

また、昔の作品についての描写がちらほら出てくるのだが、未読の為、どの作品の何の事なのかがわからない。非常に気になる。全部買って全部一気に読みたい欲望がむくむくと湧いてくる。

 

「前世とは昨日」「来世は明日」

本作品のテーマはカレー……ではなく、「輪廻転生」である。あまり詳しく語るとネタバレになってしまうので控えるが、「自分の前世」にどっぷり嵌まってしまう人というのは、どういう気持ちなのだろうか。どこを終着点としているのだろうか。人格の複数性……複数のペルソナによるドラマを持つことに対する特別感?「冴えない現世」からの、ちょっとした逃避?いずれにしても、本来の目的である「解脱」ではなさそうである。多くの場合、「輪廻転生」と言うと着目されるのは前世ばかりで、来世ではない。

私自身は、輪廻転生というものを信じていない。昔、芸能人が占い師に前世を占ってもらう番組をテレビで見た記憶があるのだが(一回ではなかったと思う)、占い師が宣言する芸能人の前世は大抵が「貴族」等、劇的な物語を持つ者であった。「ガンジス川のそばで野垂れ死にした最低カーストの老人」や「アイルランドのジャガイモ飢饉で死んだ農家の三男」「サバンナでハイエナに襲われて死んだ若い女」等、占いの結果を聞く人間にとっての物語性やインパクトが弱い人物が前世として指定されないのが、非常に胡散臭い。だから、そういった占いの類は全く信用ならないのである。

そんなインチキ臭い前世よりも、本作の中で言及された「前世とは昨日」「来世は明日」という言葉の方が、ずっと良いものだと思う。あるんだか無いんだかわからない前世を拠り所にするのではなく、今ここに存在する自分自身を大切に生きる考え方である。私自身、様々な体験を経て、十年前の自分とも、一年前の自分とも、すっかり別人である。明日はより良い人間に生まれ変わるために、今日を大切に、善く生きる。例え今日大失敗しても、この先に希望が見えなくても、たくさんの不安を抱えていても、明日は明日。良いか悪いか破滅するかは知らないが、全く違う世界が待っているのである。 

 

漠然と恐怖の彼方にあるものを或いは素直に未来とも言ふ

近藤芳美、『埃吹く街』