リスボンに憧れながら世界の片隅で砂を掴む

本、ポルトガル語学習、海外移住よもやま話。(※在住国はポルトガルではありません。)

言語学習も現地へのコミットも諦めたという話

言語が難しすぎてついていけなくなった、という事ではない。

 

現在私は日本国外で生活している。場所については伏せるが、この地は英語圏ではない。

英語圏でない地域でも簡単な英語(ピジン)が通じる場所もあるが、現地に深く関わる為には、現地の言葉を習得しなければならない。

現地の言葉を覚えずして、現地の人間の本質を知る事は困難である。

また、家の中で水回りのトラブルが発生した時など、現地の言葉がわからないと立ち往生する羽目になる。

 

という事で、私も移住してから数年目にして、現地で使用されている言語の学習に正面から取り組み始めた。

 

「普通、移住前に勉強しないか?」というツッコミが入りそうだが、国として英語を公用語にしておきながら、ここまで英語が通じないとは思わなかったのである。(移住前の調査が甘いと言われてしまえばそれまでだが、当時、私と配偶者にはその時間がなかった。)

また、日本の労働環境諸々に疲弊しての、半ば逃げるような移住であった為、元から現地の文化面には興味がなかった。

 

移住当初は貧しかった為、仕事を選ぶ事は出来ず、激務に追われていた。言語を勉強しようとしても、疲労で体も心もついてこない。

ようやくその職を離れ、落ち着いて勉強する時間が出来た為、現地語の学習に着手した。独学ながらもある程度は向上したのだが……

ここで、壁に突き当たることになった。

言語の壁ではない、社会の壁である。

 

現地語を話すアジア人は歓迎されない。

これは日本でもその傾向があるのだが、場合によっては酷い扱いを受ける。

非常にくだらない理由からそういった差別が行われる。

いい加減にしたらどうか、と思う。

 

そして、あの一連の大事件が発生。

例の便器の話ではない、社会の話である。(ここまで書けばどの地域か特定されてしまいそうだが、これを書かずして私が何に絶望したのかは理解されないであろう。)

残念ながら、この地の多くの人々を信用出来なくなってしまった。

「現地へコミットしたい」という思いも、雲散霧消してしまった。

現地文化を知る為の努力もしていたが、全て水の泡である。

 

また、「現地の人の本質」についても、ある程度知った上で大きなギャップを感じ、歩み寄ることの難しさを思い知ってしまった。

あまりにも、保守的。「産めよ増やせよ繁栄せよ。」

表面上は「日本人よりも自由」に見えるが、そんなものはどこの国の人間であろうが同じである。その表面だけを見て、皆「ここの人間は自由なのだ。」と勘違いをする。

一皮剥けば、そこには我々が予想もしなかった強烈な保守思想や迷信への執着が顔を見せる。

しがらみに疲れて母国を出た人間にとって、これはたまらない。

(リベラル派はどこに行っても肩身が狭いのかもしれない。)

 

 

半ば愚痴のような記事になってしまったが、海外移住を考えている人の参考になれば幸いである。(この時期にそんな人がいれば、の話だが。)

また、「ある国が大好きで移住したけれども、幻滅して帰国した。」という人はどうやら一定数いるようなので、キラキラ海外移住情報で夢を見過ぎない方が良い。

昨今はSNSの発展により、「成功しなかった人」の声も可視化されるようになった。それらの情報はツイッター等を漁れば知ることが出来るだろう。

 

また、

留学で滞在する場合と、働きながら暮らす場合、ニートの場合

働きながら暮らしている場合でも、

駐在員、研究員、一般企業事務職、寿司職人、日本語教師

では見えてくる世界や生きる難易度が全く異なる。

「キラキラ」「映え」を、鵜呑みにしてはいけない。