リスボンに憧れながら世界の片隅で砂を掴む

本、ポルトガル語学習、海外移住よもやま話。(※在住国はポルトガルではありません。)

加速する世界の気温は『華氏451度』ヘと上昇する

悲報。また洋書専門店が閉店。

華氏451度についてガッチリ書こうと思っていたが、また一件本屋が閉店するというニュースが入ってきた上に、それが新型コロナ前に通っていた洋書専門店だった為、悲しみのあまりやる気を失ってしまった。新型コロナによる不況がとどめの一撃となってしまったらしい。あの本屋で私はPhilip K. Dickの"Do Androids Dream Of Electric Sheep?"を見つけて興奮したのを覚えている。「わざわざ憎きAmaz●nを使って国外から取り寄せることなく、ここでも好きな小説を、紙の書籍を買えるのだ!」と。(勿論本は即購入した。)

一応英語も公用語とされているこの国であるが、洋書を置いている書店は人口に比べるととても少ない。そもそも多くの国民が本になど毛ほどの興味も持たず、テナント料も高く、現地語の本を取り扱っている普通の書店が生き残ること自体大変難しいのだから、洋書専門店など(特別な事情がない限り)生き残れるわけがないのである。私がこの地に移住してきた頃にはもっとたくさんの洋書取り扱い店舗があったのだが、数年でバタバタと潰れてしまった。

 

リアル書店の閉店はAmazonのせい?

さて、リアル書店については、日本以外の先進国でもAmazonの台頭により苦しい状況に陥っているという報道を時折目にするのだが、本当にAmazonだけがその原因なのだろうか?

 

思うに、世の中に、もっと瞬間的に、脳味噌を回転させずとも快楽を得られるモノが氾濫しており、人々は読書に時間を割かなくなってしまったのではないだろうか。

例えば、動画サイト(これはテレビの後継になるのであろう)やSNS

 

窓から空の雲でも眺めていた方がマシなクオリティの動画(女性が男性を引っ叩いて喜んでいるような動画、など)。

「感情をざわつかせる、刺激的な短文」、もしくは、短文ですらない、ただ愚痴を絵に描いただけの素人の漫画。

 

それをSNSという人の感情の集合体のような場所にぽいと投げ込めば、「共感」が雪崩のように発生し、その「共感祭り」の参加者はただただグルーヴ感に酔う。(そして投稿者の承認欲求はゾクゾクと満たされるのだ。)グルーヴ感に酔うのは構わないが、投稿内容が昨今のポテトチップスの内容量のように少ないので、その先の思考に発展しない。例えば、良書を読むことにより、思考が一段、二段、三段、四段……と階段を上昇するように発展してゆくと考えると、スカスカのポテトチップス動画(もしくは短文)では、せいぜい一段で終了である。「パリッ、うまっ。」でおしまい。「バン、ボコッ、ワーオ!なにもかもがこのとおりさ」*1

ポテトチップスは中毒性がある為、一度嵌まり込んでしまうと食べることをやめられない。止まらない。

そして「ポテトチップスを食べる人々」が「扱いやすく、お金を絞り取ることができる」事に、世界の企業は気がついている。彼らは自らがポテトチップスを世に送り出すのは勿論、付加価値をつけたり、手に取りやすい場所に配達されるよう工夫したり、様々な味付けが可能になる粉を開発したり、大いに利用している。

 

最終的に、ポテトチップスに依存し、思考をやめて反射だけで動き続けることを選んだ脳は力を失い、文章を読む、書くことだけでなく、何かを想像すること、記憶することも覚束なくなる。

 

「本などつまらないし、読む時間はない。それよりTikT●kの方が笑えるわ。」

「本など押し付けるな。文学を読んだって、何の得にもならないさ。」

「本など買う必要はない。」

「本など捨ててしまえ。」……

 

 

おや。

これでは、華氏451度の世界ではないか。

 

「いいかね、昇火士などほとんど必要ないのだよ。大衆そのものが自発的に、読むのをやめてしまったのだ。」

華氏451度〔新訳版〕レイ・ブラッドベリ/伊藤典夫早川書房

 

尚、ポテトチップスに個人的な恨みはない。

*1:同じく早川書房華氏451度〔新訳版〕』より