リスボンに憧れながら世界の片隅で砂を掴む

本、ポルトガル語学習、海外移住よもやま話。(※在住国はポルトガルではありません。)

おすすめポルトガル音楽(2)現代の歌手による民族歌謡ファド

ポルトガルの民族歌謡と言えば「ファド」である……と言っても、ファドを聴いた事がある日本人はあまり居ないかもしれないし、ファドの存在すら知られていないかもしれない。知っている人は、ディープな民族音楽好きか、あるいはポルトガル旅行の際に聴いたか……。そもそも、私もペソアの"The Book Of Disquiet"を読んでいて、初めて"fado"の単語と出会った。音楽として耳にしたのはその後である。

 

伝統的でオーソドックスなファドは、適当に選んで聴いても曲の特徴を掴むのが難しいかもしれない。

だが、現代の洗練されたファド歌手(と演奏者)による歌であれば、外国人にもわかりやすく、すんなり楽しめると思う。そこで、現代的センスを感じさせながらも、心震わせる郷愁はファドそのもの、という素敵な一曲を紹介したい。

 

それが、Ana Laínsが歌う"Cantiga Bailada"である。

 

Ana Laínsはポルトガル中部の街Tomar出身の女性歌手である。瑞々しく伸びのある歌声がとても美しい。1979年生まれなので、まだまだ活躍してくれそうだ。

 

曲名"Cantiga Bailada"は直訳すると『踊りの歌』だろうか。(もっと良い訳があったらそちらを採用してください。)軽やかなステップで踊るポルトガル人が脳裏に浮かぶ。

 

そして冒頭の「ティーリリティリリ……」は癖になる、というよりも、脳内で無限リピートしてしまう。気づいたら掃除機をかけながら、肉をフライパンで焼きながら、「ティーリリ……」と口ずさんでいる。恐ろしい曲である。

だが、とてつもなく美しい。

 

千種創一歌集『砂丘律』。手に取れば、アラビア。

発売時インターネットで話題になった歌集なので、ご存知の方も多いだろう。

著者千種氏は1988年生まれの中東在住(歌集『千夜曳獏』に経歴の記載がある。)、新しい世代の歌人である。故に、近代の歌人のように、「結核で死ぬ間際の最後の命を振り絞って産み落としました」というような、鬼気迫る……散りかけた人の情念の強烈さが迫り来る作品ではない、と思う。

しかし、近代の歌人とはまた違う表現方法で、遠い中東の「命」の存在、軽々しく吹き飛ばされてしまう人間の命の儚さや悲しみを、日本の読者へ伝えている。

 

映像がわるいおかげで虐殺の現場のそれが緋鯉にみえる

 

手のひらの液晶のなか中東が叫んでいるが次、とまります

 

現代らしい語彙と青年の若い感性で表される中東の混沌が、胸に突き刺さる。

勿論、本書に掲載されているのは、血の臭いを感じるような悲劇の歌ばかりではない。私が好きなものをいくつか下記に引用しよう。

 

海風を吸って喉から滅ぶため少年像は口、あけている

 

どら焼きに指を沈めた、その窪み、世界の新たな空間として

 

アラビアに雪降らぬゆえただ一語ثلجサルジュと呼ばれる雪も氷も

 

 少年像の詩は無常感が良い。人工物である少年像の喉を、海の風がざらざらと蝕み、長い時をかけて砂の世界へ還してしまう。ドラマティックで美しい、滅びの情景が思い浮かぶ。

 

どら焼きの歌は、その感性に驚く。中東とは関係の無い歌も掲載されている本書の中で、一番のお気に入りがこのどら焼きの歌である。

柔らかなどら焼きの表面をきゅっと人差し指で押してみる(親指や中指かもしれないけれど、人差し指が自然だろう)。それによって新しい空間が世界に生まれる……そんな視点で物事を見られる人は中々居ないだろう。正直、羨ましい。

 

三つ目のアラビア語の歌は、アラビア語との出会いが楽しい。言語学オタクでなくとも、知的好奇心をくすぐられる。

アラビア語は習得の難易度が恐ろしく高いので、余程やる気が無い限り手が出ない言語である。読み書き出来る日本人は滅多に居ないだろうし、そもそも、多くの日本人はアラブ世界とは無縁の生活を送っているだろう。

だが、この美しい歌により、「アラビア語は知らないけれども雪の冷たさなら知っている読者」と、「雪の降らないアラビア」が、ثلجサルジュの一語で繋がれたのだ。

 

歌を通し、異文化と出会う事が出来る。何と素晴らしい歌集だろう。

アラブの地に出向かなくても、その砂の香りをふと感じるような、素敵な一冊である。

本の装丁も手に馴染む、洒落たデザインである。後書きで作者が「この歌集が、光の下であなたに何度も読まれて、日焼けして、表紙も折れて、背表紙も割れて、砂のようにぼろぼろになって、いつの日か無になることを願う。」と書いているが、作者が望む通り、いつかは砂に還ってゆきそうな儚さを感じる。

今年出版された歌集『千夜曳獏』も味わい深かったが、『砂丘律』の方が「私が知らない世界を見せてくれる」歌集だと思う。

ネイティヴと会話すれば外国語がペラペラになるという幻想

それは資本主義が見せる幻想

外国に住んだり、ネイティヴから教えてもらえば、外国語がペラペラになると勘違いしている人たちがいる。いや、勘違いしているのではなくて、自分が短期留学や語学教室の商売で儲ける為に、敢えてその考えを広めようとしているのだろう。

 

私は海外に住んで10年ぐらいになるが、未だに現地の言語がほとんど出来ない。言われたことを聞き取って理解する事は出来るのだが、脳内での消化に一分ぐらい時間がかかる。そして、先の発言に対する応答をしようとした時には、もうその会話は終わっている。

かれこれもう一年以上その言語を勉強していないし、なるべく使わないようにしているので当然である。進歩する事が無いどころか、退化の道を辿るのみである。

 

帰国子女など在外経験があって外国語も日本語も習得している人は、自分で努力して学習した結果、複数の言語を操れるのである。ただぼんやり生きていれば自動的に耳に外国語が入ってきて理解可能になる訳ではない。

 

英会話教室で西洋人から英語を習えば「自動的に」英語が話せるようになる、と言うのは完全に幻想である。

 

国語学習で文法が嫌われる理由

国語学習を始める上で一番大事なのは「ネイティヴと接すること」ではなくて「基礎作り」であるが、基礎作りの中でも中核を成す「文法」は何故か嫌われがちなのである。

何故文法が嫌われるのか?以下の原因が考えられる。

  1. 教科書がつまらない
  2. 「外国語を話しているぞ!」という充足感が得られない
  3. 学習効果が見えにくい
  4. 教師が悪い

1の「教科書がつまらない」は、マイナー言語学習者からすると「何贅沢言っているんだ!」である。英語の場合、学習者も研究者も多いので教科書や文法書が大変豊富である。公的な教育機関で使用される文法書は大変読みやすく、わかりやすい。(これがマイナー言語の場合になると、日本語で書かれたまともな文法書が存在しない場合もある。)

また、教科書や文法書の解説文が面白おかしく爆笑必至の文体だったら、勉強が捗るだろうか?そうは思えないし、そんなふざけた文法書は信用できない。

 

2の充足感は、「外国語で書かれた書籍を一冊読み切った時の充足感」に比べたら屁みたいなものである。

英会話教室などで「英語で外国人と話している私かっこいい。」と思い、それだけで満足してしまう人もいるかもしれない。が、ナイジェリアで産業廃棄物を片付けている人も英語を話せるのである。旧植民地で生まれ育った人々の中にはトリリンガル、クアトロリンガルもゴロゴロいる。それを知ってもなお、「英語で外国人と話している私かっこいい。」だけで充足感を得られるのだろうか。

 

3の学習効果について。見えづらいのは仕方が無い、勉強しなければならない事が山のようにあるのだから。そんなにすぐ効果が見える学習法があるのなら、皆がそれに殺到し、誰も彼もが外国語マスターになっているはずである。そんな美味しい話は無い。

 

4の「教師が悪い」は私怨である。高校時代の英文法の教師がクレイジー過ぎて内乱が発生、授業崩壊を起こしていたので、英文法どころではなかった。何の勉強でもそうだが、教師がおかしいとただただ時間を無駄にするだけなので、悲惨である。

 

文法が役に立つ実例

今私が勉強しているのはポルトガル語なので、敬愛するペソア大先生の一文を引用したい。

 

A literatura é a maneira mais agradável de ignorar a vida.

 

文法の基礎を押さえていれば、

・éはser動詞。先頭の名詞literaturaと後方の文を繋いでいる

・優等最上級が使用されており、maneiraを修飾している

と順番に解読出来るので、あとはliteratura, maneira, agradável, ignorar, vidaなどの語を辞書で引けば、何が書かれているのか理解できる。

何もネイティヴを掴まえて教えてもらわなくても、初歩的な文法を自分で勉強するだけで、詩人が残した文章を読む事が出来るようになるのである。

文法を整理して教科書を書いた人は讃えられるべきである。

 

また、綴りが英語に似ている語もあるが、ポルトガル語とは語順が異なる。

英語に直訳すると、下記の通り。

 

Literature is the most agreeable way of ignoring life.

 

英語の文法だと名詞wayが形容詞agreeableの後に置かれる。

ポルトガル語の文法を勉強していないと、何故、英語のwayに相当するmaneiraが、maisの前に置かれているのかがわからないし、どの要素が何を修飾しているのかも理解出来ない。

 

日本の外国語教育を文法・読解偏重だと批判し、おかしな方向に動かそうとする流れがあるようだが、文法が出来なければまともな文章は読めない。まともな文章が読めず書けず片言だけの外国語を話せたところで、一体何になるのだろう?

何のために外国語を学習するのか。

外国人に道を聞かれた時の為?それとも、土産屋で売り子をする為?

 

働きたくない、という熱い想い。

ぼくは働く才能を持たないんだ。

『クヌルプ』(ヘルマン・ヘッセ高橋健二、新潮社)

 

「海外で働きながら生活している。」などと書くと、とても意識高い人のように感じられるかもしれない。

海外で働く」……この5文字だけで、タピオカのSNS映えなど一撃で打ち倒す程のキラキラ感を醸し出している。

確かに、シリコンバレーでエンジニアやってます。」「深センで起業しました。」「パリのハイパーメディアクリエーターでございます。」という人々はキラキラを超えてギラギラしている。何か凄そうだし活躍していそうな雰囲気である。

 

だが、「海外で働いている」人たちの中にも、意識が低い「働きたくない族」は必ず存在する。

私である。

初めから意識が低かった訳ではない。海外渡航を志すきっかけも、今は無き海外ニート氏のブログであった。

だが、気づいてしまったのだ、自分が「働きに向いていない。」という事に!!

 

働きたくない、という気持ちは人一倍強い自信がある。

しかも、労働にも向いていない。

にも関わらず働いているのは、遊ぶ金欲しさの為である。

ちなみに現在の勤め先は、新庄剛志の歯よりも白いホワイト企業であるが、それでも労働は労働、嫌なものは嫌なのである。

(ついでに書くと配偶者氏も「働きたくない族」であり、常々「宝くじが当たったら仕事はやめる。」と言っているが、配偶者氏は何だかんだ言って有能なので、私よりはマシである。)

 

日本では「仕事を通じて成長」などという戯言が流布しているが(誰が言い出したのか知らないがそんな文句が書かれている紙は燃やしてしまうが良い)、私が仕事を通じて得たものランキング第一位は「金」、第二位は「病気」である。第三位辺りになってようやく「国際的な経験」が入ってくるが、別に仕事を通さなくても国際的な経験は可能である。

(尚、国内で働いていた際には「国際的経験」すら得られず、ゴミのような職歴を積み重ねただけだったので、「金」と「病気」以外何も得ていない。)

故に、「働いていないと成長が止まる族」「働きによって自分磨き族」「仕事が生きがい族」とは、気が合わない。私も「何言ってんだこいつ。」と思うし、彼らも私に対して同じように思うだろう。vise versaである。距離を置いて付き合わないが吉。

 

大体、頭が仕事の事でいっぱいな状態よりも、頭空っぽの方が夢(リスボン)を詰め込める。仕事の悪夢に魘されて夜中に飛び起きるよりも、ペソアの紡いだ白昼夢をふらふら追った方が圧倒的に健康に良い。私は何度か自己都合の無職を経験しているが、心身ともに非常に健やかな状態で、語学学習や読書が捗り、大変幸福であった。

 

ただ、男性が無職の状態でいると、世の中の空気はその心身を切り裂くように冷たいのだろう。女性が無職でいてもアレコレ雑音が耳に入る。「ごちゃごちゃ干渉しないでくれ、お前は何様だ、殿様か?」と思っても、各々が作り出した「理想の社会人像」からはみ出した人間を見ると、ああだこうだ文句を言う人は存在し続けるのである。

 

そんな中、堂々とニートとして生活している人がいた。

『「山奥ニート」やってます。』(石井あらた、光文社)という本に、山奥で集団ニート生活をする事になった流れが書かれている。

こんな風に生きている人もいるのだ。

ニートと言いながらも結局のところ多少は自力で生活費を稼がねばならず、「ニートに徹するのも難しいものだな。」と思ったが、ぎゅうぎゅうの満員電車に詰め込まれて死ぬ程働かなければならない訳ではないし、他人(主に上司)を骨の髄まで呪うという事もないし、のびのび生活しているようだ。楽しそうで少し羨ましい。

 

難しい時代だからこそ、様々な生活スタイルの人が排除も攻撃もされず、穏やかに生きられる工夫が為されれば良いのだが、と思う。 

世界中の「働きたくない族」に、幸あれ。

 

ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』。ノーベル賞作家が抉り出した「人間」。

あらすじ

ある男が、自動車の運転席で信号待ちをしていた時、突然目の前が「真っ白に」なり失明してしまった……そこから本作のストーリーが展開する。白い失明は瞬く間に周囲へと広がってゆき、失明の感染を恐れた政府は患者たちを収容施設に放り込む。介助も無く、綺麗な水も出ない、打ち捨てられた旧精神病院の中で、唯一失明していない眼科医の妻が、極限の中奮闘する。何の為に?自分の為、夫の為、そして偶然出会った周りの人たちの為に。

 

医者は短くうめいて、涙をふたつぶ、こぼした。たぶん白いのだろうと思った。

 

読み始める前に

新型コロナウイルスの影響でカミュの『ペスト』が売れているとの事であるが、本作にも謎の感染症が登場する。ただ、この作品の感染症は現実に存在するものではない。SFエンターテイメント的なものとして書かれた訳でもない。『白の闇』は寓話なのである、ガリバー旅行記(スウィフト)と同じ類の。故に、本作を理解する為には、物語の表層をサッと撫でるように読むのではなく、事象が何を示唆し、風刺し、象徴しているのかを手探りし理解しながら読まなければならない。そうでなければ、その世界の中で迷子になってしまう。

また、本作のように理解の難易度の高い本(「そうかな、簡単ですよ。手に取るようにサラマーゴの事がわかる。」というマウントはお断りである。)を読む際には、作者の政治的立ち位置や信仰する宗教を知っておくと、作者が何を書いているのか理解する手がかりになる。ジョゼ・サラマーゴの場合、ポルトガル人だからカトリックかと思ったら無神論者であった。しかも共産主義者でもある。思想的に思いきり偏っているようなので、作品の意図するところが見えやすいかもしれない。

 

感想

……などと思って読んだら、非常に難しい作品だった。頭脳をフル回転させなければついていけない。

サラマーゴの鉤括弧を使わない文体は読んでいるうちに段々慣れてくるのであまり問題ではないのだが(勿論ぼんやり読んでいたら、誰が何を言っているのか見失うことは間違いない)。

作中での「見えない」事は、何を意味しているのか、一体何が「見えない」のか。

読了した日は夜中まで延々と考えてしまい、寝付きが悪かった。

 

わたしたちは目が見えなくなったんじゃない。わたしたちは目が見えないのよ。目が見えないのに、見ていると?目が見える、目の見えない人びと。でも、見ていない。

 

上記は、本作の主人公である眼科医の妻の最後の台詞である。

(「目が見えないのに、見ていると?」の部分は眼科医の台詞と解釈した。)

恐らく、「私たち」が「見えていない」のは、 外見、社会的地位、世間体、人間を飾り立てるものを削ぎ落とした「人間の本質・魂」ではないだろうか。登場人物の「名前」が一切出てこない事も、その示唆であるように思える(名前に意味がない、名前はいらない、という表現が何度も出てくる)。名前という装飾すらも取り払った、声しかない「一人の人間」。頼りない、剥き出しの「人間」である。

物語の中で、人々は視力を失い、この世を生き抜く為の鎧を失い、赤ん坊のように丸裸の状態(※物理的な意味で服は着ている)になった上、不衛生で無秩序な場所に放り込まれた事により、徐々に、思いやりのある行動、思慮深い行動ができなくなってしまう。人間としての尊厳が崩壊し、消失してゆく恐怖。

 

患者全員が人間の尊厳をなくす階段をどんどん降りていった。そしてどん底の生活にまで堕ち、わたしたちはそれでも零落したのは他人だと言いわけをした。たとえ形が違ったとしても同じことは起こりうるわ。

 

ただ、そんな世界の中でも、優しさや愛情を忘れない人間もいる。

柔らかな人の魂、その人の本質を覆い隠している全てが剥がれ落ちた事により、若く美しい娘と、老人との間に愛が生まれた。目が「白い闇」に覆われていればこの恋は無かっただろう、老人と娘もそのように述べている。娘の目は白い闇に包まれていたが、娘の魂が老人の魂を「見る」事で、恋に落ちたのだと思う。

 

いっしょにいたいと思うほど好き、こんなことを人に言うのは初めてだわ。

以前どこかでわたしと出会ってたら、そんな言葉は口にしなかったでしょう。

 

周囲にいた目の見えない仲間たちは祝福したり希望を持ったりできる気分ではなかったと記されているし、それは非常に現実的な感想だと思うが、このような状況だからこそ、愛情などのポジティブなものが救いになるのではないか。

 

尚、政治体制への批判、秩序と無秩序、フェミニズムについても深堀りすれば何時間でも語れそうだが、そこまで書き始めると終わらないのでやめておく。

また、教会の描写など、まだ解釈出来ていない部分があり、己の教養・力量不足を痛感している。「見える・見えない」に関しての解釈も誤りであったら、笑うしかない。

 

作品の舞台を探る

本作の舞台の地は名言されていないが、多くの人々がごちゃごちゃした街の共同住宅に住み、駐車場ではなく路地に駐車をしている事、作者がポルトガル出身である事などから、ポルトガルのどこかの街ではないかと考えた。

英語版ウィキペディアにも、登場人物がチョリソーを食べている事、言語的特徴(二人称単数tuが主語の場合の動詞の形に関して)、教会の宗派が、ポルトガルが舞台である手がかりになっていると書かれている。が、言語的特徴は日本語訳を読んでいてはわからない事だし、チョリソーはソーセージと日本語訳されていたはずである。翻訳された小説は翻訳者の目を通して作品に触れる事になる(そういった意味では、翻訳者の作品であるとも言える)。そうすると、どうしても見えない部分が出てきてしまう。

AIによる翻訳が劇的に進歩し、いつか外国語学習が不要になると言う人もいるが、外国文学を愉しむ、外国文学の作者が紡いだ世界に入り込む為には、外国語学習は必須だと、私は思う。

勿論、人には能力の限界があるので、翻訳に頼らざるを得ないのだが。

 

 

外国人は聖人ではない。我々と同じ人間である。

「うちのフランス人はホニャララと言っていた。」

「同僚のマレーシア人はホニャララと言っていた。」

 

ネットを周回しているとこのような証言に出会う事がある。

ネットを周回しなくても、「フランス人は服を5枚しか持たない。」等の謎の本が量産されている。紙の無駄ではないだろうか。

疑う事を知らないピュアなハートの人は、そういった情報を目にして「へー、そうなんだ。マレーシア人はそう思っているんだ。」「フランス人って服5枚しか持ってないんだ。」と思ってしまうかもしれない。自分にとって都合の良い話であれば尚更。

 

しかし、その話、そのまま飲み込むにはちょっと主語が大き過ぎる。

 

日本人にだって、色々な人がいる。

ジャージでドン●ホーテに夜な夜な現れるDQNから、ブラック企業で働いて心身共に削られて幽霊のように生きている人、日常的にギロッポンでシースーを食べるような人など、様々である。

例えば「日常的にギロッポンでシースーを食べるような人」の意見を、日本人の代表意見として採用されては困る。「日本人は六本木の寿司が一番美味いと言っていたから、日本旅行の際には必ず六本木に行こう。日本人が言うのだから間違いはない。」などと言われても責任は取れない。

「とある外国人の見解」をその国の代表意見として一般化してしまうというのは、こういう事である。

 

外国に住んでその国のドンキ●ーテ層、不良と付き合う人はあまりいないだろう。恐らく、親しく付き合う事になるのは「高度な教育を受け、国外の出来事にも興味ある意識高い外国人」である事が多いと思うのだが、そういった人はかなりの少数派の可能性がある。少数派の意見をまるでその国の代表意見のように取り扱い、有り難がったり広めたりするのは、おかしくはないだろうか。さらに言うと、「先進国西洋人の意見」の場合、まるで訓示か何かのように扱われていて始末が悪い。

それだけではない。意見の発信元が「先進国の外国人」に限らずとも、妄信している人を散見する。好意を持つ国の国民や民族に大して、まるで聖人像でも投影しているかの如く、「彼らの意見に間違いはなく、彼らは正しい。それに反する事を言うような他の人間は、完全なる嘘つきである。」と信じ切って発信している人がいる。その考え方は、偏見に繋がる可能性もある。

 

果たして、それで良いのだろうか?

 

私が知る最悪の例を、ここにはっきりと記しておこう。

現地人と一緒になって、他の民族を貶す日本人が存在する。

何という下劣な精神なのだろう。そのような人々は外国までやってきて、一体何を学んだのか。

 

続けて書くとまた言葉が強くなってしまいそうなので、今日はここまでとする。

海外生活で必要なもの。ラバーカップ。

日曜日にジョゼ・サラマーゴの『白い闇』を読み終えたので早速その感想を書きたかったのだが、月曜日という事でやる気が全く出ない。顔がずぶ濡れのアンパンマンの如し、である。それ故、お菓子を食べながら読み飛ばせる小話を書くことにする。

 

海外(途上国)は、家のものが頻繁に壊れる。

海外と一口で言っても、発展途上国、先進国、公営住宅、豪邸等、国と住環境により違いはあるのだが、私は先進国と豪邸には全く縁がないので、ここでは発展途上国の下〜並レベルの家の話だと思って読んで欲しい。

 

さて、本題である。

途上国だと、家のものが壊れて「私はここで死ぬのではないだろうか。」という経験をした在外邦人も多いだろうし、私にもそういう経験がある。また、実際に不運(ハードラック)と踊(ダンス)っちまった*1ような事故の話も聞いたことがあるが、とてもここに書ける内容ではない。だから、死なない範囲内の話を書く。

 

生命に危険の無い程度の室内設備の故障と言えば、そう、トイレである。

「またトイレの話かよ、お前はあつ森か!」というツッコミは甘受する。

とにかくトイレが詰まるのである。恐らく配管が貧弱なせいであろう。

そしてトイレが詰まった時、「ああ、あれが無い!あの、ズコズコするやつ!」と大騒ぎになるのである。

「トイレをズコズコするアレ」はラバーカップ(英語:plunger)という名称であるが、絶対に一家に一本買い置きしておいた方が良い。私の場合、初めてトイレが詰まった時サービスアパートメントに住んでいたので、マネジメントに電話一本かけることで何とかなったが、普通の家だとどうなっていた事か。日本は一般家庭でトイレが詰まる事など滅多に無いのでラバーカップを常備していない人も多いかと思われるが(私の実家にもラバーカップは無いしトイレが詰まった事もない)、もしどこか日本国外に住む予定のある人は滞在先で購入された方が良いだろう。

また、以前ネットサーフィンをしていたら、カナダかどこかの先進国で真夜中にトイレを詰まらせた日本人がその悲劇を語っていた。カナダでも詰まるのである。途上国は絶対に詰まる、なぜなら工事がいい加減だから。

 

尚、トイレの汚水が噴水の如く逆流してくるという信じられない事件も時折あちこちで発生しているが、変な家に住まなければ巻き込まれる事はないだろう、多分。

 

お菓子を食べながら読み飛ばせるはずの話が、お菓子を食べていたら気分が悪くなる話になってしまった。

*1:『疾風(かぜ)伝説 特攻の拓( ぶっこみのたく)』より引用