リスボンに憧れながら世界の片隅で砂を掴む

本、ポルトガル語学習、海外移住よもやま話。(※在住国はポルトガルではありません。)

木をモノとしか捉えられない人々。

植木らが

打ち棄てられて

夢見るは

赤子の泣き声

青の秋空

(マキシミナ11世)

 

以前、集合住宅の公共のゴミ捨て場に使用済み便器が投棄されていた事を書いたが、昨晩は観葉植物が捨てられていた。

観葉植物が捨てられていたのは今回が初めてではない。これまでにも何度か、家庭ゴミを入れる大型ゴミ箱の中にダイレクトに観葉植物が突っ込まれていた

今まで捨てられていた観葉植物は全て背の高い大きめの木で、鉢ごとそのまま投棄されており、枝には緑の葉が生い茂っていた。推測であるが、木の病気やハダニなどの問題で捨てられたわけではないようである。

 

想像してみて欲しい。

 

外国映画で見かけるような、大きな黒いゴミ箱が、窓の無い狭い部屋にぽつんと置かれている。

中に放り込まれているのは、袋に詰め込まれた残飯。

そして、まだ生きている木。

 

あまりにも寂しく、胸に突き刺さる光景である。何故こんな事が出来るのだろうか、一体何の為に植物を買ってきて家に置いたのか。受けてきた教育が異なるせいだろうか。捨てられるその日まで美しい緑色で己が心を慰めてくれた木を、日々水をやり世話をしてきた木を(もしかしたら自分では一切水やりをしていないのかもしれないが)、生ゴミ入れの中に放り込める人とは、一体今までどんな生き方をしてきた人なのだろう。

勿論、ゴミ収集スタッフや他の住人の事を何一つ考えていない、対人道徳の欠如も大きな問題なのだが、それ以上に「命ある他の種族」に対する感覚の違いに、唖然とさせられた。

 

また、この「植物」への冷徹さ、完全なるモノ扱いの意識は、そのまま環境保護への無関心を表している。家の中にある植物すら大事に出来ない人間に、外に自然に生えている木を大事にしようなどという気持ちが起こるはずがない。

昨今、先進国では環境保護サステナビリティの重要性が叫ばれ、日本などはかなり努力をしていても「足りない」と詰められる始末である。が、発展途上国の圧倒的な意識の低さ、「自分さえ良ければそれで良い。」という自己中心的な考え方を変えなければ、地球は人類が滅びる日まで、いや、滅びてもなお汚染され続けるだろう。そのような自己中心的な人々が多く子孫を残してゆく未来を考えると、反出世主義への確信がより一層深まるばかりである。人類の未来は暗い。

尚、途上国の場合は「貧しさ」が環境破壊の言い訳にされる。しかし、途上国の中でも中流日本人以上に資産を持っている人間が増えているにも関わらず、その環境への意識は一向に改善されない。(改善されていないからゴミ箱に植木鉢を突っ込むような事を平気でやらかすのである。)先進国で環境保護を訴える人々の意識との差は、永遠に遠く離れたままだろう。何故なら、金持ちになる為の勉強だけは一生懸命だが、それ以外の分野になると興味を持たれずそっぽを向かれているからである。(例:英語は立身出世の為に必死で勉強するが、英文学は完全に無視されている。)

また、開発独裁の結果、自由な議論や経済発展の邪魔になるような分野が発展できない国もある。開発独裁国家に加担してきたのは先進国なので責任を持って対処すべきと私は考えるが、誰も責任など取らないまま、問題は次世代へと投げ捨てられるのだろう。あの、植木鉢のように。

 

最後まで悲観的な話で終わってしまったので、清らかな散文を引用して締めようと思う。

 

そしてわが人生の果てにたどりつく真正かつ永遠なる目的地として、あの松の木は、その安らかさの中に憩うようにとわたしをいざなうのだ。

(『いただきの松の木』より)

『プラテーロとわたし』(フアン・ラモン・ヒメーネス、長南実訳)