リスボンに憧れながら世界の片隅で砂を掴む

本、ポルトガル語学習、海外移住よもやま話。(※在住国はポルトガルではありません。)

海外生活で必要なもの(2)健康。

幸か不幸かWFH(Work From Homeつまり在宅勤務)時代が終わってしまい、記事を書く時間も読書する体力も減ってしまった。通勤は悪である。

だが、通勤の再開により、騒音地獄からは開放された。レオパレス並みの最底の防音レベルを誇る我が集合住宅では、近所の子供のプロレス音が「360度フルサラウンド!ドルビーラボもびっくりの臨場感・立体感!」で止むことなく迫り来るのである。そんな環境下で何ヶ月も仕事を続けていたので、マジで精神に異常を来す5秒前、丑三つ時に五寸釘で藁人形を柱に打ち付け始める寸前のところであった。

冒頭で「幸か不幸か」と書いたが、オフィス出勤に切り替わって良かったのだと思う。仕事に集中できるし、藁人形を日本から輸入する必要もなくなった。家の柱も無事で何よりである。

 

さて、前置きは程々にして、海外生活で必要なもの、第二弾。

それは、『健康』である。

(とても大事な事なので、赤字で書きました。)

ある意味で語学力よりも重要な要素だと思う。語学力は後からでも何とかなるが、健康ばかりはどうにもならない

(語学力ゼロで海外に突撃する愚行を推奨するわけではない。)

 以下三点、懸念される事項を挙げてみる。

 

心の病に注意

慣れない海外での生活は、ストレスの連続。

適応障害鬱病と隣り合わせである。

「海外はこんなに自由!」「毎日楽しく生活しています!」という人もいるが、それは生き残った強者の自慢の声である。戦いに敗れ帰国を余儀なくされた落ち武者の声はあまりにも小さく、中々耳にする機会がない。(「そんな黒歴史思い出したくない。」「敗者だと思われたくない。」という嫌悪感や見栄もあるのかもしれない、大半の人は自分の失敗談など大声で語りたくないだろう。)

日本在住時から心を酷く病んでいる人には、海外移住は勧めない。リスクが高過ぎる。夏目漱石がイギリス留学でどうなったかは有名な話である。

日本で健康に暮らしていても、移住先の水が合わず、さらに過酷な仕事やら何やらで追い詰められて体調を崩すケースもある。それで辛くなって精神科を受診しようにも、言葉の壁、治療費の壁が立ちはだかるのである。

 

恐怖の治療費用

日本のような健康保険システムが無い国で治療を受けた場合、恐ろしい金額を請求される可能性がある。(例:風邪の治療で5万円、痔で一日入院して100万円)

健康保険システムがある国は治療費が低価格な場合もあるが、それでも日本語通訳対応や英語対応が可能な外国人慣れした医療機関にかかろうとした場合、ボッタクリとも言える金額を請求される。

また、例え任意保険に加入していても、場合によっては補償対象外になるので、その請求が我が身に降りかかってくる可能性があるかと思うと気が気でなく、考えれば考えるほど余計に体調が悪くなる。日本の旅行保険を利用する場合、治療費の請求が患者ではなく保険会社にダイレクトに行く事がある……つまり、患者がその場で支払いをする必要がない事があるが、自分で治療費を支払ってから保険会社に請求しなければならなくなった場合のリスクも考えておかなければならない。緊急で入院して高額請求された場合、一括で病院に支払えるのかどうか、等。

日本の「国民皆保険」は、本当に有難いシステムだと思う。

 

医療機関側が外国人に慣れていない場合

これは個人的な体験になるが、旅行中に某所の「開業以来一度も外国人なんか来たことありません」というような医療機関で受診した際、看護師たちが

「わっ、外人だ!」

「同じ黄色人種だし大丈夫でしょ。」

と言っているのを聞いてしまった。スリリングな体験である。

 

また、これは医療機関に問題があるわけではないのだが、現地人と日本人とで薬の効き方に差が出る場合がある。処方される薬が日本と違うので、何か持病がある人は要注意。

 

この状況下なのであまりいないと思うが、これから海外に出る予定がある・移住を計画している人は、とにかく心と体の健康に気をつけて欲しい。

特に私のように、心の臓が飴細工で出来ているように繊細で、海外移住に適さないタイプの人は要注意である。

何回通院し、入院したか……あまりにも多過ぎて、もう覚えていない。(幸い、今はそこそこの健康を保っているのだが。)

Twitterを捨てて本を読もう。金言を求める現代人へ。

今回の記事は、Twitter歴約10年の元ツイッター廃人である私が、Twitterをやめようかどうか迷っている人に捧げたい。

 

書き始めた途端にタイトルから離れるが、まずはペソアについて。

 

私がポルトガル語を勉強しようと志したきっかけ……それは、フェルナンド・ペソアというポルトガル・孤高の詩人との出会いである。彼の作品は日本語にも訳されて出版されており、私も『[新編]不穏の書、断章』(澤田直訳、平凡社)の電子版を読んでいる。また他に、英語版"The Book Of Disquiet: The Complete Edition"(Margaret Jull Costa訳, Jerónimo Pizarro編)電子版も併せて読み進めているところである。

ペソアの書いた散文に魅せられ、日々ペソアにどっぷりなので、ペソアについて存分に語りたくてブログを立ち上げたぐらいなのだが、彼の構成した宇宙は複雑で広大、開けても開けても終わりが見えないマトリョーシカのようで、素人には中々手が出せない。ペソアの散文を毎日読んでいるうちに、段々とペソアに取り憑かれ、まるで夢の中を歩いているような、おかしな感覚になる。まるで、シェイクスピアハムレット研究者のようである。「ハムレットは本当に狂っていたのか、はたまた狂気を演じていただけなのか。」等とハムレットに没頭し、ハムレットの狂気の中へと引き込まれ、ああだこうだと十人十色の解釈を考え出す。それに対し、オスカー・ワイルドが残した、ユーモラスな問いかけが面白い。

 

“Are the commentators on 'Hamlet' mad, or only pretending to be?”

ハムレットの注釈者は狂っているのか、それとも狂ったふりをしているだけなのか?)

 

さて、前述の平凡社版の『[新編]不穏の書、断章』の巻末エッセイで、池澤夏樹氏がペソアの散文について以下のように書いているのだが、

 

次に、彼は断言する。

箴言とは断言である。そこに疑問や反論の余地はない。絶対の思想の絶対的独裁者の言葉を読者はひれふして受け入れる。対話や弁証法が割り込む余地はない。

 

 

これを読んで思い出したのが、Twitterである。

 

Twitterと一口に言っても、アニメクラスタから技術者クラスタ、子育てクラスタ等、様々な集団が存在しているので一概にどういうものだと断定する事はできないのだが、私がTwitterから身を引いた要因の一つが「強い言葉が蔓延する傾向」であった。

例えば、日本死ねである。(幸い、この呪詛はクラスタ違いの為か私のアカウントまでは届かなかったのだが、ニュースで目にしたので例に出した次第である。)

上記のような強い言葉の他にも、社会的勝利者・成功者など「強者」による有難い訓示もよくシェアされる傾向があった。また、自己啓発本やビジネス本のタイトルや見出しのような、キャッチな言葉も人心を惹きつけるようである。

 

だが、誰だか知らない一般人が吐き出したキャッチな言葉やら呪詛やらを有難がる事に、一体何の意味があるのだろう?

 

(ある意味でブログを書いて全世界に公開している自分自身をも否定しかねない言葉な上、万が一Twitterに戻った時に「おんどれ、どのツラ下げて戻って来たんじゃあ!」と良心が疼くので書くかどうか迷ったのだが……。肥溜怨念地獄のようなTwitterとは違い、ブログは頭と時間と気力を使いながら真面目に書いており、また、有難がられる事を目的としている訳でもないので、自己否定にはならないだろう。)

 

恐らく、Twitterで強い言葉に惹かれる人々は、日々を生きる心の支えとなる、箴言、格言を求めているのではないだろうか。

一昔前までは、多くの人々はそれを書籍の中に求めていたのだが、今はアルファツイッタラーや人生の成功者の呟き、そして「見知らぬ他人の強力な言葉」で代替しているのではないだろうか。

呟きを読み、激しく同意し、リツィートボタンを押して周囲に広める(「この人が言っている事は私も共感できる!社会的に正しい!」)。本など読まなくても、無料で視界に入る、気軽にシェアできる「名言」である。

だが、その質はと言えば、わざわざ他人に教え広めるようなレベルではない。(中には本物の詩人が呟いている場合もあるが、それはまた別の次元の話である。)

また、個人が呟く強い言葉には、「質」以外にもう一つ難点がある。それは、言葉に含まれる「毒」である。

 

(1)マキシミナ11世 @Maximina11

「起きて食べて寝ておしまい、それが良い一日の過ごし方?獣と一緒ですね!」

 

(2)ハムレット 第四幕四場より

Hamlet "What is a man, if his chief good and market of his time

Be but to sleep and feed? A beast, no more!"

(最も良い主な時間の使い方がただ食って寝るだけだとしたら、人間とは何だ、獣に過ぎない!)

 

上記(1)(2)を見比べて頂きたい。(2の翻訳が下手くそだな!と思った人は、英文だけ見てください。)

意味の主旨は同じなのだが、(1)の方がより腹立たしい印象ではないだろうか?

(1)はわざと「人間とは何か」の部分を取り去り、まるで発言の相手や読者に向かって「獣と一緒ですね!」と言っているような、思いやりのなさを表したせいもあるだろう。

だが、それ以上に、どこの馬の骨だかわからない人間が、偉そうに人を獣呼ばわりしている」という事に対してカチンと来るのではないか。

(2)は表記の通り、ハムレットからの抜粋なので、腹の立てようもない。腹を立てたとしても言い返すハムレットは実在の人物ではなく、また、著者は遠い昔に死んでいる。

そう、ハムレットが多少どぎつい事を言っていても、角は立たないのである。

 

つまり、詩人でも何でもない素人が放った強い言葉は、社会問題を公に引っ張り出したり、その場限りの共感で心をちょっと慰めるのに多少は役に立つかもしれないというだけで、ほとんどは役に立たないだけでなく、最悪の場合、読者が言葉の中の毒を読み取って不快感を覚える事になる。そして、発言者に一言物申さねば気が済まぬという人が現れてしまうと、泥沼の合戦状態になり、タイムラインは第二次世界大戦スターリングラードと化すのである。

 

だからこそ。

精神の健康のためには、Twitterで日々心を磨耗させるよりも、読書をする事を勧めるのである。意味のない憎悪や欲望に取り憑かれ、怨嗟を垂れ流し、一時的な共感による慰めを得るよりも、素敵な本を読んだ方が絶対に良い。ペソアハムレットに取り憑かれた方が断然マシである。(書くまでも無いことではあるが……読む本については、文学でも哲学でも歴史でも、しっかりとした骨のある本を選ばなければならない。)

それに何より、作品の「抜粋」の周囲に存在する世界の広大さや濃密さ、面白さ……それを知らずして人生を終えるなんて、もったいないではないか、と私は思う。

 

最後に。

偉そうなタイトルをつけてしまい、少し恥ずかしい。反省している。

有栖川有栖『46番目の密室』。紙の本を買うべし。

有栖川有栖・火村英生シリーズの原点『46番目の密室』(新装版、講談社)を読了したのだが、この作品をまだ読んだことが無く、これから買おうとしている人に言いたい。

 

「電子版ではなく、紙の本を買うべし!」

 

何故かというと、「新装版のためのあとがき」に、綾辻行人氏に解説を書くよう依頼した旨が記載されているのだが、電子版には綾辻氏の解説が掲載されていないのである!綾辻ファンではないが、解説の存在を知ってしまった今、綾辻氏が何を書いたのかが気になって気になって仕方がない。本書電子版の最大の謎は綾辻氏の解説文である。

(本書に限らず、電子書籍は他作家による後書きや解説が削除されている事が多く、大変残念である。)

 

本の内容ではなく後書きの事を頭に書いてしまったが、一番気になった事なのだから仕方ない。

さて、本題。

私が初めて読んだ火村英生シリーズ作品は、『鍵の掛かった男』である。「いつどうして買ったのかわからない」積ん読本の中に紛れていたので期待していなかったのだが、有栖川有栖氏の人物描写の巧みさに驚いた。たまたま「被害者」を中心とした物語だったせいもあるかもしれないが、有栖川氏の人間観は単なる飛沫ミステリ作家のものではない。

だが、本作『46番目の密室』は……おそらく、初めて読んだ作品がこちらだったら、続けて同シリーズの他の作品も買って読む事は無かっただろう、と思う。本作のテーマは「密室」であり、「密室ミステリの有名作家が開催したクリスマスパーティーで、まさかの密室殺人事件が発生!犯罪心理学者・火村とミステリ作家・アリスの凸凹コンビが謎を解き明かす!」という内容なので、ミステリらしいと言えばそうなのだが、会話表現の非現実的な……漫画のような部分がどうしても気になってしまう。

 

「声を揃えて言うか?」

「ああ」

せーの。

──それがどうした?

 

上記抜粋は、火村とアリスが解いた謎に対しての感想を同時に述べる箇所なのだが、非常に漫画的ではないだろうか。成人男性が「せーの。」と声を合わせて何かの感想を言ったりするだろうか。どうも気になる。

 

また、クリスマスイヴの都会の様子について「この無宗教の国の都会では、とても正気とは思えない狂躁が繰り広げられていることだろう。」と言う描写があるのだが、これも引っかかる。確かに現代日本に国教は無いのだが、立派に(?)宗教だらけ宗教まみれの国である。統計は見ていないが、死後は仏教の僧侶に弔ってもらう予定の人が多いのではないだろうか。キリスト教徒もいるだろうし、あちこちに神社もあるし、石を投げれば新興宗教やらエホバやらの勧誘にぶつかりそうである。

「この無宗教の国では〜」は単なる作家アリスの感想であり、著者・有栖川有栖氏本人の日本観とは別かもしれないが。

 

さて、肝心の密室トリックについては、正統派でしっかり書かれている作品だと思う。が、私自身アツいミステリファンではなく、ミステリファンというよりも文学ファンなので、仕掛けに関しての細かい事は言えないのである。読んでいる途中で犯人がわかってしまうH野圭吾作品と比べたら遥かに良いトリックだとは思うのだが……。

実を言うと、アガサ・クリスティエラリー・クイーンディクスン・カーも読んだ事がないのである。だから、トリックに関しての評価は難しい、折角の密室小説なのに。

 

尚、海外の推理・探偵物ではウィルキー・コリンズの『月長石』を読んだが、あの作品は文句無しに面白い。日本語に翻訳されたものが紙の本で出版されていたと思う。英語電子版は米アマゾンで0ドルでダウンロード可能である。私はケチって英語電子版を読んだ。正直、洋書を一冊読み切るのは体力と気力が必要で面倒なのだが、これは本当に面白くて最後まで読み切ったし、時間があれば再読したい。近代の英国式ユーモアに興味がある人には全力で推薦したい一冊である。

 

有栖川有栖の話をしていたはずが、ウィルキー・コリンズを推して終わってしまった。

ルッキズムの侵食による「イケメン京極堂」

イケメンな変わり者が大活躍!日本の探偵小説シリーズをはじめから

 

hontoのブックツリーを眺めていたら、上記のようなタイトルと、京極夏彦の『姑獲鳥の夏』のカバーが目に入った。

京極堂シリーズの中で美青年と言えば探偵・榎木津だが、どうも彼の事を指しているわけではないらしい。ツリーの中を覗いてみると、『姑獲鳥の夏』の他に、先日読了した有栖川有栖『46番目の密室』もある。他に挙げられている3作品は読んだ事がないので何とも言えないのだが、京極堂シリーズと火村シリーズの主人公は「美青年」だっただろうか?そのような記述は無かった気がする。顔立ちが整っているだとか、異性からモテる等の記述はシリーズのどこかにあるかもしれないが、「イケメン」とは……?

 

そもそも、「イケメン」と言う言葉が極度に薄っぺらい。そんな薄っぺらい言葉で、好きなシリーズの主人公たちを纏めないでもらいたい、と思うのは私だけか。

「イケメン」と言えば、もやしのように痩せていて、染色した髪の毛をツンツンに立て、眉毛を細く整えた……接待を伴う飲食店のスタッフや、日本国産ファンタジーRPGゲームの主人公のような姿が……そして、「ラー麺つけ麺僕イケメン」が脳裏を過ぎる。

そんな言葉で釣らなければ、本は売れないのだろうか。

「イケメン」の登場を目的として読まれるのならば、それは「キャラクター萌え漫画」や「乙女ゲーム」と一緒ではないか。(乙女ゲームに出てきそうな京極堂を想像すると、気持ち悪くて鳥肌が立つ。)

誰がどんな目的でどんな妄想をしながら読もうが読者の勝手なのは確かだが、何でも外見重視の「イケメン」「美少女」「美しすぎる」に持っていくその姿勢はいかがなものか。(※これは日本に限った話ではない。)

 

そこで思い出したのが、先日観た映画版『壬生義士伝』(原作は浅田次郎の小説)への違和感である。

役者陣に厚みがあり良い映画なのだが、佐藤浩一が演じる斎藤一が、身請けした元遊女のぬいについて「どうだ、醜女だろう。」と言い放つシーンがある。だがそのぬいを演じているのは、中谷美紀である。どこが醜女なのか。江戸末期の美醜の基準がどの様であったか知らないが、中谷美紀で醜女はないだろう。中谷美紀の演技に問題があるわけではなく、ぬいという存在の儚さを上手く演じていたとは思うが、このキャスティングは引っかかる、喉に刺さった魚の骨の様に。

 

果たして、文学作品の主要登場人物が「イケメン」「美女」である必要があるのだろうか。そもそも、作品内にその様に書かれていないにも関わらず「イケメン」や「美しすぎる」などのキャッチをつけて売り出すことは、作品への侮辱ではないか、と思うのだが。

映像作品や漫画と異なり、ルッキズムによる支配を逃れられるのが文学である。「画面に映える俳優が、人生映えない設定の登場人物を演じる」事も無い。登場人物は全て読者の想像の中に、作家が紡いだ文字によって描き出されるのである。そうやって出来上がった「登場人物の姿」は、「イケメン」や「美女」である必要がない。

三者がおかしな外見上のレッテルを貼り付けることは、空想の邪魔にしかならない。

 

 

文学作品に、「イケメン」や「美女」の無駄な後付けラベルは不要である。

主人公の顔が美しくないからといって、名作の輝きが消え失せるわけがないのだから。

 

Do you think, because I am poor, obscure, plain, and little, I am soulless and heartless? You think wrong!—I have as much soul as you,—and full as much heart!

Jane Eyre (by CHARLOTTE BRONTË)

 

 

言語に美しいも汚いも無い。汚れているのは心である。

それ、本当に中国語ですか?

 

「中国人観光客が騒がしい。中国語は本当に煩い言語だなあ、だから嫌いなんだ。」

 

インバウンドで沸いていた頃の日本からよく聞こえてきた台詞である。

だが、ちょっと待って欲しい。

その「中国語」とは、一体何を指しているのか。

 

まさか知らない人はいないと思うが、中国は単一民族国家ではない。学校では普通話(中国標準語)教育が行われているので、中国語以外の言語や方言は衰退しつつあるが、それでも多くの話者がおり、広東語や客家語など、標準語とは大きく異なる方言も現存している。(広東語などは中国語とは異なる言語だと主張する人もいる)。日本人は標準語を「北京語」と呼んでいるが、北京には北京の方言が別に存在しており、中国語では「北京話(北京語の意)」と呼ばれる。

また、台湾には国語(中国標準語とは使用する漢字が異なる)、台湾語(国語とは異なる)、他少数民族言語等が存在する。香港・マカオでは主に広東語が話されている。

加えて、世界に散らばる華僑が、それぞれの訛りを持った中国系言語を話すのである。

 

冒頭に戻る。

 

騒がしかったのは本当に中国人観光客だったのだろうか?

話されていたのは中国語(標準語)だったのだろうか?

マスメディアの印象操作による、偏見ではないだろうか?

 

 

日本語の場合

視点を変えてみよう。

 

1、佐清さま、これをお受け取りくださいまし。……ふつつかものでございますけれど……。」

2、「おんどれ、ドタマかち割るぞゴルァ!」

 

1をゆっくり高い声で丁寧に音読した場合と、2を腹の底から全力で叫んだ場合、日本語を全く知らない外国人が、同一の言語だと判断できるだろうか。

1を聞いた人は、おっとりした言語との印象を持つだろう。だが、2を聞いた人が「これが日本語ですよ。」と言われると、「日本人はこんな話し方をするのか……。」と誤解するかもしれない。(1も2も、現代の標準的日本人の話し方ではないが。)

つまり、言語そのものと関係の無いところで、言語が「美しい」か「汚い」か判断されてしまう可能性がある、ということである。

 

言語への偏見は外国人への偏見と繋がっている場合が多い。

煩い言語、汚い言語、美しい言語、簡単な言語、神聖な言語……そんなものは言語学的には存在しない。

(※簡単な言語について、相対的に学び易い言語の存在はあると思う)

そういった形容は、全て個人的な主観・偏見によるものである。

どんなに美しいとされる言語でも、酷い使い方をすれば、醜い汚泥のような言葉となり場を汚すのである。

勿論、発音方法や音域により、受ける印象は言語毎に変わるとは思うが、それを個人的な偏見に結びつけるべきではないと、私は思う。

 

「あなたの話す言語が汚いと言われたら、あなたはどう思いますか?」

 

『プラテーロとわたし』。アンダルシアの美(ベリエーサ)

突然、世界中の港が次々と閉ざされ、「何処かへ旅する自由」が無くなってしまった。そんな時代、人間の心を慰めるのは、外国の美しい文学である。

 

ヘルマン・ヘッセが書き残したドイツの自然も素晴らしいが、スペイン・アンダルシアの詩人、フアン・ラモン・ヒメネスが「描いた」故郷の風景の美しさは、また違った趣がある。まさに、"la belleza"(美)であった。

……とてつもない詩人がいたものだ、と思う。

 

フアン・ラモン・ヒメネスは文学の道へ進む前に絵画を学んでいたらしく、その類稀な色彩感覚、色の捉え方は詩人というよりも画家のものに近いのかもしれない。絵具ではなく、言葉によって鮮やかに描かれたアンダルシアの色彩。

 

すでに靄がかかり、濃紫に夜のとばりがおりた。教会の塔のかなたは、紅紫と緑のほんのりとした明るさ。

『プラテーロとわたし』(長南実訳、岩波文庫

 

夜の空を表すのに、濃紫、紅紫、緑の三色が使われている。他の地域の詩人では、この色遣いは難しいのではないだろうか。「夜空」のグラデーションの中に、緑色が捉えられるだろうか。

 

さて、上記でも引用した『プラテーロとわたし』であるが、フアン・ラモン・ヒメネスが父の死によって心を病み、滞在していたマドリードを去り、故郷の町・モゲールにて静養していた中で書き連ねた作品である(一部はその後モゲールを出てから書かれた)。

日本語版は、岩波文庫から長南実氏の翻訳版が出版されている。注釈が丁寧に付けられていてわかりやすい。可能であれば、紙の本で読んだ方が良いと思う。

 

プラテーロは、フアン・ラモン・ヒメネスがモゲールで共に過ごしたロバの名前であるが、とても大事にされていたようである。死後は詩人とプラテーロの約束通り「松かさ農園」の墓に埋葬され、美しく優しい散文の中で弔われている。詩人の愛に包まれて、銀色のプラテーロは「永遠」になったのだ。

(当時、役に立たなくなった家畜は「家畜捨て場」という場所へ捨てられていた事が、作品中に書かれている。)

ロバは愚鈍、ウスノロ等の意味が英語などの一部言語に定着してしまっており、イメージがあまり良くないのだが、詩人はロバに対するそういった概念や扱いを嫌っており、プラテーロを大切な美しい友達のように思っていた。

 

きみのその目はね、プラテーロ、おだやかに空を見あげるその目はね、きみには見えないけれど、美しい二つの薔薇なのだよ。

『プラテーロとわたし』(長南実訳、岩波文庫

 

読めばため息が出る。何という美しい言葉なのだろう。

プラテーロへの慈愛に満ちた視線、モゲールの町の暮らし、人々の喜びや悲しみ、生と死と永遠……138篇の散文は、読者の心を美の世界へと連れ出す。

 

尚、この作品、宗教色がとても強い。西洋の文学作品はキリスト教とは切っても切り離せない関係だが、地方柄特にカトリックの影響が大きい為、どうしてもそういったものが受け入れられない人には勧められない。(宗教は、人の営みの一部なのだが……。)

 

いつの日かまた外国を旅する自由が戻ってきたら、アンダルシア地方を訪れてみたい。詩人が描いた鮮やかな色を、芳しい香りを、五感で味わう事が出来たのなら、何と幸せな事だろう。

この詩を、生きている間に読めた事、大変有り難く思う。

ヘルマン・ヘッセ『クヌルプ』。何もかもあるべきとおりに。

「何者にもなれなかった。」という考えに苦しめられている人に勧めたいのが、ヘルマン・ヘッセ『クヌルプ』である。

 

激務で心身がボロボロ、キャリアもコネクションも形成失敗。おまけに配偶者は反出生主義者となり、この人生で「親」になる事は無くなった。何もかもが中途半端、気づけばマイノリティ、最早誰にもその存在が認知されない無色透明な存在。早死にしようと思って酒を飲んでみるも、コップ一杯以上飲むと持病が悪化するので、酒に溺れる事すら出来ぬ。嗚呼情けない。自分は何のために生まれてきたのかと絶望、目の前の世界は闇に包まれた。

 

少し前の私である。今思い出してもゾッとするし、うっかり真面目に読んでしまった人も気分が悪いだろう、かたじけない。

 

このように、真っ暗闇の中で一人のたうち回っていた私に、輝く救いの糸を垂らしてくれたのが、ヘルマン・ヘッセ『クヌルプ』であった。

「ぼくは働く才能を持たないんだ。」の名言を残した作品である。

 

『クヌルプ』は、野良猫のように生きる流浪の青年「クヌルプ」の生き様を、「早春」「クヌルプの思い出」「最期」の三部構成で描いた作品である。美しい自然の描写や郷愁、ラテン語学校、職人、詩文、そして最期……ヘッセらしい要素がきゅっと詰まっている。

 

「早春」「クヌルプの思い出」では、クヌルプが、美しい猫のように人々に愛され、あちらこちらをふらふらと、歌い、踊り、行く先々の住民たちをちょっとずつ喜ばせながら、旅をして歩く様子が描かれている。

 

クヌルプは元々はラテン語学校に通う優秀な生徒だった。彼は、ある少女の「言葉」によりラテン語学校を退校する事になるのだが、彼女の言葉が無情な「嘘」であった事が発覚した時、少年の柔らかな心には深い傷がつき、その不治の傷が、彼の生き様を決めてしまった。クヌルプは何かに縛られる事を極端に嫌がるようになり、職にも就かず、定住もせず、心地良い放浪を続けるようになった。時には、小さな「嘘」をどんな扉でも開けてしまう鍵のように使って、人の心の内側にするりと入り込み、人を喜ばせ、笑わせた。「嘘」が人生の転機になってしまったクヌルプだが、真実を明るみにして人を悲しませるような、無粋な事はしなかった。彼は何も持っていなかったが、「粋」で、美しかった。

 

「ぼくはもう人間のことばを信用したり、ことばで束縛されたりしなくなった。もう二度としなくなった。自分にふさわしい生活を送った。自由と美しさに事欠くことはなかったが、始終ひとりぼっちだった」

 

 上記は最終章「最期」の中の、クヌルプから幼馴染みへの言葉である。「何者にも束縛されない自由」は、ひとりぼっちであるという事と、表裏一体である。

何だか私自身の人生のようだと思った。クヌルプのように他人を喜ばせたりはしていないし、ラテン語学校に通うような優秀さも無いので、実際にはクヌルプ以下なのだが、他人と深く関わる事を避けてきた結果どうなったか……私には、痛い程、わかってしまう。きっと私もクヌルプのように、最後には故郷も失い、思い出だけを抱えて、一人死んでゆくのだろうな……と思った。

 

ふたりは、神さまとクヌルプは、互いに話しあった。彼の生涯の無意味だったことについて。また、どうしたら彼の生涯が作り変えられ得ただろうか、ということについて。なぜあれやこれやがああなるよりほかなく、なぜ別なようにならなかったかということについて。

 

いや、正確には、クヌルプは完全にひとりぼっちではなかった。彼は自身の過去について、神と対話しながら(無宗教者から見れば、これは内なる自己との対話であろう)、苦しみや後悔を解きほぐしてゆく。最期へ向けて。

 

「何にもなれなかった」と嘆く人々は、この後悔渦巻く対話の中から抜け出せないのであろう。「あの時、ああしていたら……。」と。

 

「嘆いたとて何の役にたとう?何ごとも良く正しく運ばれたことが、何ごとも別なようであってはならなかったことが、ほんとにわからないのかい?ほんとにおまえはいまさら紳士や職人の親方になり、妻子を持ち、夕方には週刊誌でも読む身になりたいのかい?そんな身になったって、おまえはすぐまた逃げ出して、森の中でキツネのそばに眠ったり、鳥のわなをかけたり、トカゲをならしたりするのじゃないだろうか」

 

これは神からのクヌルプへの言葉であるが、これは宗教を超えて、「たら・れば」の中で苦しむ人々皆の心に響く事だろう。

もし私が今違う人生を歩んでいたら、暢気にポルトガル語を勉強したり本を読み漁ったりは出来ないだろう。キャリアもない、子どももない、束縛のない状態だからこそ、自分の時間とお金を自由に使えるのである。無駄に人間関係に悩むこともない。

ポルトガル語にも出会えず、本を読む時間も体力もなく、お金もない……考えるだけで背筋が凍る。本を読まない人生を生きるなんて、考えられない。

 

「わたしが必要としたのは、あるがままのおまえにほかならないのだ。わたしの名においておまえはさすらった。そして定住している人々のもとに、少しばかり自由へのせつないあこがれを繰り返し持ちこまねばならなかった。わたしの名においておまえは愚かなまねをし、ひとに笑われた。だが、わたし自身がおまえの中で笑われ、愛されたのだ。おまえはほんとにわたしの子ども、わたしの兄弟、わたしの一片なのだ。わたしがおまえといっしょに体験しなかったようなものは何ひとつ、おまえは味わいもしなければ、苦しみもしなかったのだ」

 

これも神の言葉であるが、アブラハムの宗教を信仰しない人にとっては理解し難いかもしれない。「あなたは神から愛されているのだから、あなたもあなた自身を愛しなさい。」というような、自己受容の教えが根底にある。この箇所については、宗教の影響が大きいので受け入れられない人もいるかもしれない。

だが、藁にもすがりたかった私は「救ってくれるのであればマニ教でも何教でも」という心境だったので、特に抵抗感や嫌悪感は無かった(だが新興宗教はお断りである)。生来のネガティヴさが海外移住と生活のアップグレードである程度改善されたとはいえ、それまでは自己評価が低くとても苦しい人生を送ってきたので、この自己受容の考え方は衝撃だった。「何の役にも立たず、何者でもない」自分を肯定しても良い、あるがままを受け入れる……それは、革新的な考え方だった。

 

最終章を読了したその日を境に、私は苦しみから開放された。

 

「何者にもなれなかった。」と悩んでいたのがバカバカしくなったし、「何者かになれ!」「役立たずに価値はない。」という思想・価値観を押し付けてくるような人々を軽蔑するようになった。そんな人たちに一体人類の何がわかると言うのだろう?多くの人々を苦しめる言動を行なっている時点で、「役立たず」どころか人類世界に害をなす「有害物質」であろう。役立たずの方がまだだいぶマシである。

 

そもそも、宇宙規模で考えたら、人間の営みなど塵以下である。

一度きりの人生、無駄な苦しみを抱え込まず、和かに生きてゆきたいものである。

  

 「何もかもあるべきとおりです」

 

 

※引用は全て『クヌルプ』(高橋健二訳、新潮文庫)より。