リスボンに憧れながら世界の片隅で砂を掴む

本、ポルトガル語学習、海外移住よもやま話。(※在住国はポルトガルではありません。)

『世界をこの目で』。対極の人の目を通して外国を見る。

自分とは対極の世界に生きる人が書いた本

黒木亮氏の『世界をこの目で』を、何とか読了した。

「何とか」という副詞がついたのは、文章が酷いとか面白くないとかそういう事が理由ではない、むしろかなり興味深い内容であった。では何が問題だったかと言うと、本を開いて一ページ目「はじめに」の段階で、私が苦手なタイプの在外邦人が書いた本であると察知してしまった事である。(極めて個人的な問題である。)

下記に冒頭を引用する。

 

外国を理解する一番の早道は、そこに住んだり、その国の人と仕事をしたりすることだろう。思い通りにいかない交渉に悩んだり、「なぜあんなことをいうのだろう?」と原因を調べたりしていくうちに、相手の国の社会、歴史、文化などが見えてくる。

『世界をこの目で』黒木亮

 

ここまでは「ウンウン、そうだな。」と、自分の経験を思い出しながら読み始めたのだが

 

このことを肌で感じたのは、金融マン時代に国際協調融資の主幹事として、世界中の参加銀行を説得していたときだ。全参加行が一字一句に同意しなければならない融資契約書を作るときなど、欧州、中近東、アジア、米州の金融機関と時差や人種の壁を越えて議論を戦わせ、あるときは説得し、あるときは折れ、合意を目指して一歩一歩進んで行きながら、十〜三十の外国を一気に体験した。

『世界をこの目で』黒木亮

 

世界を飛び回る金融マン。ちびまる子ちゃんの藤木」マインドを持つ私とは、対極の存在である。

過去数回、このような対極のタイプの人とホームパーティーなどで接触したことがあるのだが、生き様や価値観が違い過ぎて話が噛み合わなかった。私にとっては、DQNとはまた違う方向でコミュニケーションが難しい相手である。想像してみて欲しい、「大人になった藤木」と、国際金融マン、商社マン等のリア充の権化が、ホームパーティーで会話しているシーンを。居た堪れないであろう。

さらに、他の章でも

 

わたしは若い頃、深田祐介さんの『炎熱商人』や『革命商人』、城山三郎さんの『生命なき街』などを読んで、自分も物語に描かれたような苛烈な国際ビジネスの最前線で働いてみたいと憧れた。

『世界をこの目で』黒木亮

 

やはり別世界の人である。上記タイトルは古本屋などで見かけた事があるが、ワンコイン価格でも買わないし、タダで誰かから貰ったとしても読まないと思う。(人生の時間は有限である。)

 

そもそも何故この本を買ったのか?と疑問に思われるかもしれないが、著者・黒木氏が何をしている人なのか全く知らなかったからである。数年前「知らない作家が書いた旅行記」を読みたいと思い、hontoの旅行系ブックツリーの中でこの本に出会ったのだ。ちなみに、購入の際、中身の立ち読みもしていないし、レビューも確認していない。故に「外国での体験について書かれている」という情報しか持っていなかった。

 

「これは困ったぞ、最後まで読めるのか……。」と不安を抱えながら読み進めたが、これが中々面白い。特に、『第一章 世界をこの目で』『第二章 ロンドンで暮らす』、また第四章のカイロ留学記は興味深かった。驚いたことに、黒木氏はあのカイロ・アメリカン大学の中東研究科で修士号を取得している。(東京都知事が経歴詐称だ何だと騒がれたあの大学である。)

黒木氏はカイロ滞在時、フスハー(正則アラビア語。文語)で喋って笑われたり、赤痢で苦しんだり、謎の細菌に感染したりとハードな経験をされたようで、読んでいて刺激的で面白かった。ただ、自分自身は絶対に赤痢など経験したくないと思った。

謎の最近に感染する事なく、著者の目を通して海外を追体験出来る「読書」……つくづく素晴らしいものだと思う。

 

6言語の使い手・黒木氏 

『世界をこの目で』から少し話が逸れるが、黒木氏は、日本語と英語以外にもドイツ語、アラビア語、ロシア語、ベトナム語の会話ができるらしい。バイリンガルトリリンガルぐらいなら世界中にゴロゴロいるが、6言語も話せる人は中々いない。実際に『世界をこの目で』の中で、ロシア語などで外国人と会話をしている場面が出てくるので、氏の言語スキルは本物なのだろう。

また、6言語の内訳については「セルビア語とクロアチア語で2言語です」というようなチートも無しである。英語とドイツ語以外は言語学的に見てそれぞれ遠く離れている上、アラビア語とロシア語などは日本人には習得が大変難しいと言われている言語である。

勿論、全てネイティヴ並みに話せるというわけではなさそうだが、それでも会話が出来るレベルまで達する事は容易ではなく、黒木氏は常人を超えた努力家なのだろうと思う。(私など、ドイツ語もロシア語も少し齧った後に勉強する目的を見失って放置している。そもそも藤木マインドなのだから仕方ない。)

ちなみに、黒木氏の語学学習の姿勢については、下記プレジデントの記事に記載されている。

 

president.jp

 

1年間学び続けられれば、ビジネスに必要な英語力は習得できる。語学は人に習うものではなく、自分自身で身につけるもの。とくに英語は、誰もが学生時代に基礎を学んでいる。留学はもちろん、語学学校も必要ない。そもそも外国人講師に頼ろうという発想が間違っている。

(中略)

日本語しか解さない人は、鍵穴から世界を覗き込んでいるようなものだ。無駄な時間はいくらでもある。酒は最たるものだ。せめて飲む時間の半分でも、語学習得に向けてはどうだろうか。

『黒木 亮直伝! 自宅学習で5カ国語マスター』

 

上記プレジデントからの引用である。英語学習者は、学習者を食い物にする途上国やらリゾート地への留学を決める前に、自分にとって何が必要なのかよく考えた方がいいだろう。

また、「日本語しか解さない人は、鍵穴から世界を覗き込んでいるようなものだ。」という主張は『世界をこの目で』にも書かれているが、全くその通りだと思う。

(※だからと言って日本語を疎かにしていいと言っているのではない。外国語が上手でも日本語が出来ない日本語ネイティヴはどうかと思う、そのような人々は大体読書なんてしないパーティーピープルの可能性が高く、彼ら・彼女らと一緒の空間に放り込まれても「本日の天候」ぐらいしか話す事がない。)

 

おすすめの本から見えてくる「その人の本質」

さて、話を言語学習から『世界をこの目で』に戻す。

第四章の中の『心を打つ物語を探して』にて黒木氏のおすすめの本が紹介されているのだが、やはり自分とは全く違う世界を生きている人だと痛感した。私が今までに読んできた本や、人に勧めたいと思う本とは何一つ被らないし、恐らく今後買って読む事も無い本ばかりである。(私が欲しい和書はhontoのお気に入りリストだけで20万円を超えており、これ以上は金銭的にも時間的にも厳しい。)

黒木氏も私も同じ日本人なのだが、本質的には英国人と米国人ぐらいの距離がありそうだ。しかし、他人に勧められる本が「無い」「ワンピース」等としか答えられない人々よりは、親しみを感じる。

 

さて、この本を他の人に勧めるかどうかについては……少し迷うが、経済小説が好きな人や、時間的・金銭的に余裕がある人になら勧めると思う。私は経済小説やスポーツに全く興味が無いので、それらに関して書かれている部分は高速で読んだ。作品を一つ書く為に五百万円とか一千万円も経費をかけて取材する著者だけあって「経済ネタ」等は熱く濃くしっかり書かれており、テーマ自体に興味が無くてもノンフィクションやエッセイを好む人であれば読める内容である。ただ、スポーツの話だけは心の底から興味が無かったので、厳しかった。

 

最後に、『世界をこの目で』の中で、印象に残った箇所の中の一つを引用して終わりにする。

戦後を平和に豊かに生きてきた日本人には想像もつかない過酷な土地(キルギス)を、黒木氏のペンで抉り出し、目の前に突きつける一文である。

 

わたしが見た中央アジアは、日本でイメージされている悠久のシルクロードのロマンとはほど遠く、様々な民族が血を吐きながら生きてきた「恨みの大地」だった。

『世界をこの目で』黒木亮

 

 

 

ジョージ・オーウェル、美味しい紅茶への熱いこだわり。

ジョージ・オーウェル」という名前を聞いて、人々は何を思い浮かべるだろうか?

1984動物農場?スペイン内戦?どれもこれも暗い話ばかりのイギリス人作家?

SNSの世界では何とかのひとつ覚えのように『1984』ばかり言及されるのだが、オーウェルが書き残したのは小説だけではない。短いエッセイも多数書いており、令和を生きる日本人が読んでも面白いと思える内容である。文体はシンプルでわかりやすく、英国流ユーモアも練り込まれている。当時の英国文化や精神が良く伝わってくるので、その方面に興味がある人や学習者は読んでみて欲しい……と言っても、私も全部読んだ訳ではないのだが。

 

そんなオーウェルのエッセイの中で一番面白いと私が思ったのは、オーウェルが紅茶作法について熱く語った作品である。タイトルは日本語に訳すと「一杯の美味しい紅茶」。他のエッセイと一緒にまとめたものが日本語訳されて販売されているが、下記ウェブサイトだと無料で読める。(興味がある人はリンク先へ飛んでみて下さい。)

 

www.orwellfoundation.com

 

1946年に書かれたものなので、食糧が配給制という話や、大鍋で煮た軍用紅茶が不味いというような話がチラチラ出てくる。今現在の世界の紅茶論とは少し離れてしまうかもしれないが、当時の英国の状況を文章を通して垣間見るようで面白い。

 

さて、オーウェルが語った美味しい紅茶の淹れ方11カ条について、項目だけ下記に紹介する。

(かなり意訳しているので、原文は上記ウェブサイトで確認して下さい。)

 

オーウェル氏の、美味しい紅茶11カ条

  1. 茶葉はインド産かセイロン産に限る。
  2. 紅茶は陶器のティーポットにて適量を淹れるべし。
  3. ポットは温めておくこと。
  4. 紅茶は濃くなければならぬ。
  5. 茶葉はティーポットに直入れせよ。漉し器など使ってはならぬ。
  6. ティーポットを薬缶の元へ持参せよ。薬缶を移動させてはならぬ。
  7. 茶葉に湯を注いだらティーポットは振るか混ぜるかし、茶葉が落ち着くのを待つべし。
  8. 紅茶は朝食用マグで飲むべし。
  9. ミルクを入れる前にクリームラインは除去せよ。
  10. 紅茶が先、ミルクが後。
  11. 紅茶に砂糖を入れるなど論外である。

 

項目9を理解するのに少々時間を要したのだが、要は、普段日本人が飲んでいる牛乳とイギリスの牛乳では、加工方法が異なるのである。低温殺菌かつ脂肪球を均一化しない加工方法を採った場合、牛乳の上部に「クリームライン」と呼ばれるクリームの層が浮いてくるというのである。『基礎から学ぶ紅茶のすべて』という本を読んでいて、クリームラインの存在を知った。(牧場などで搾りたて牛乳でのバター作りをした事のある人は、ミルクとクリームの分離過程を体験した事があるだろう。)

 

この牛乳は冷蔵庫に入れておくと、乳脂肪と一緒にカゼインミセルというたんぱく質が上部に浮かび、クリームの層ができる。この部分は乳脂肪分が18〜25%あり、クリームラインと呼んでいる。

実はこのクリームラインの部分がミルクと一緒にカップに入ることで紅茶を注がれたときに抜群においしいティーウィズミルクができあがる。

『基礎から学ぶ紅茶のすべて』 (磯淵猛、誠文堂新光社

 

『基礎から学ぶ紅茶のすべて』にはクリームライン入り紅茶が「抜群においしい」と書かれているが、オーウェルクリーミー過ぎてしつこい」と評している。結局どちらが美味しいのか、人それぞれなのだろうが、私自身はラクトース不耐で牛乳を飲むとお腹が急降下する為、飲んでみて判断する事はできない。ちなみに、少し前に英国産の牛乳を温めて飲んだら、半日トイレから出られなくなった。

 

項目10の紅茶とミルクの先入れ後入れ問題について、オーウェルの主張は分が悪い。

これも『基礎から学ぶ紅茶のすべて』に記載されているのだが、ファミリーエコノミスト(雑誌)、トワイニング、英国王立化学協会が「ミルクが先」の方が美味しいと結論づけている。

 

このようにイギリスの紅茶ファンを楽しませた紅茶論争は、2003年6月24日、英国王立化学協会に所属するアンドリュー・スティーブリー博士によってミルク・イン・ファーストがおいしさに優位性があることが化学的に立証され、一応の決着をみることになった。

『基礎から学ぶ紅茶のすべて』 (磯淵猛、誠文堂新光社

 

尚、同書にもオーウェル11カ条が掲載されているが、何故か11カ条の順番が原文とずれていたり、オーウェルの主張するところと少し離れてしまっているのではないかと思える部分があるので(クリームラインの項目について)、クリーム入り紅茶のようにしつこく書くが、原文を読んだ方が良いと思われる。11カ条の根拠についても書かれており、英国文化にも触れられ、しかも無料で読める、良いことづくめである。

 

ミルクが後か先か。結局、これも人それぞれ好きな淹れ方で良いと私は思う。

ただ、オーウェル式で紅茶を淹れれば、「オーウェルが親しんだ紅茶の味はこれか……。」と、浪漫を感じる事間違いなしである。

そのように楽しむのも良いではないか。

 

 

おすすめポルトガル音楽(4)シアードへの愛。

あまりグチグチ書くのもジメジメ陰気でそのうちキノコが生えてきそうなブログだと思われそうなので控えたいのだが、10年ぐらいも住んで好きになれなかった国で(小綺麗な集合住宅の廊下に糞便が落ちている国である。好きになる人間がいたら、それはド変態である。)、好きでもない言語に囲まれて暮らしていると、うっかり他の在外日本人のキラキラ輝くブログを読んでしまった日には、両の目を焼かれるような激痛を心に感じる。リスボンに住んでいる日本人が、心の底から羨ましい。しかし「冠詞の使い方で苦しんでいる」レベルのポルトガル語力しかない私には、リスボン在住を羨ましがる資格などないのかもしれない。 

 

焦がれるような憧れの地、リスボン。その中でも有名なシアード地区を歌った歌がある。

 

アーティスト名:Gimba

曲名:Chiado

 

リスボン生活が羨ましい癖にリスボンに行った事がない上に詳しくもない為、"Chiado"は最初鳥の囀りの事かと思ったが、それでは歌詞の意味が通らない。YouTubeにあるミュージックビデオ内で流れる歌詞をじっくり見たところ、"Chiado"の頭のCが全て大文字だったので、固有名詞である事にようやく気づいた次第である。(曲の中で口笛が演奏される部分があるので、固有名詞でない方のchiadoとも無関係ではないかもしれないが。)

この歌は固有名詞や外来語、辞書に載っていない言葉が多く、訳すのに丸一日かかってしまった。その上、よくわからない部分があちこちに残っている。いつか完全に訳せる日が来るのだろうか。


上手く訳せなかった言い訳はここまでにして、まずはアーティストのGimbaについて。

本名はエウジェニオ・ロペス氏(ミドルネーム等略)、1959年生まれのリスボン出身。音楽家やプロデューサーとして活躍しており、歌の他に、ギター、パーカッション、フルート、ハーモニカの演奏が可能。

還暦を過ぎているという事で、Chiadoの曲調や歌詞の内容からは昭和臭……というか、「古き良き時代」の臭いがするのは仕方がない事なのかもしれない。だが、それが良いのである。

(Chiadoが入ったアルバム"Ponto G"は2018年リリースであるが。)

 

Chiadoの曲そのものについて。

導入はシャカシャカしたリズム楽器(何だかわからない)から始まり、軽快なピアノがダンスをするように飛び込み、Gimbaの歌声がちょっとした物語の語り手のように登場する。

歌の内容はそのままChiadoの街の案内のようで、リスボンに詳しい人なら相当楽しめるに違いない。ロシオ広場やカルモ修道院などの地名が歌詞の中に散りばめられている。『ペソアと歩くリスボン』を先に読んでいたなら、もっと理解が深まっただろうか。何せ、この歌、冒頭からペソアが登場するのである。ペソアのファンとしては大興奮である。

 

Diz a história de Lisboa

Do Bocage e do Pessoa

Que o Chiado é o coração da Capital

 

YouTubeの動画内からチマチマと書き写したものなので、大文字の部分は原文ママである。

ペソアと並列のBocageは、Manuel Maria Barbosa du Bocageというポルトガル詩人の事だと思うが、そちらの詩は読んだ事がない。そのうち探し出して読んでみたいが、詩は翻訳も解釈も難しいので今すぐは無理であろう。(それよりも今は文法を頭に叩き込まなければならぬ。)

さて、詩人から歌詞の内容全体に目を向けてみると、「ごちゃごちゃした中にも愛と希望に満ちたシアード」が上手く描写されている。

気取ったお姉さんも、汚れた小僧っ子も、威張った紳士も、御婦人も、居候も、みんな熱にうかされたようなシアードで、ハッピーに生きている。ストリートミュージシャンの音楽を聴き、神を信仰し、votação(投票)という人類の無形の財産を受け継ぎ、いつかはロケットだって飛ばすかもしれない。

リスボンっ子の、深い地元愛を感じる素敵な一曲である。

嗚呼、目を、心を焼かれる!リスボンが眩し過ぎて辛い。

 

 

最後に一点……いや、二点。

 

(1)YouTubeのミュージックビデオ内の写真のいくつかが(もしかして全部?)、ネットで拾ってきた写真のようなのだが……Gimbaよ、それでいいのか……。

 

 (2)Wikipedia日本版のシアードの由来に「エヴォラ出身の詩人でかつてシアードの住民であったアントニオ・リベイロ(1520年-1591年)が、地区を通称で『シアード』(靴のきゅっきゅっという音、の意)と呼んだのが元であると、広く知れ渡っている」と書かれているのだが、英語版だと"The toponym Chiado has existed since around 1567. Initially the name referred to Garrett Street, and later to the whole surrounding area. The most widely cited possible origin for the name is related to António Ribeiro (c.1520–1591), a popular poet from Évora who lived in the area and whose nickname was "chiado" ("squeak")."と書かれている。

アントニオ・リベイロが地区をシアードと呼んだのではなく、リベイロ自体の相性がシアードだったようなのだが(António Ribeiro O.F. (Évora, 1520? – Lisbon, 1591), known as O Chiado or O Poeta Chiado was a Portuguese poet.)、Wikipedia日本語版は間違っているのではないか。怪しい。

 

 

 

アンドロイドは電気羊の夢を「何語で」見るのか?

毎日詩文とポルトガル語を頭に詰め込み過ぎたせいか仕事のせいかわからないが、フロッピーディスクレベルの低スペック記憶媒体である私の脳が過労気味なので、ガッチリ構成した話はしばらく書けそうにない。故に、今日は語学学習のちょっとした体験談を書こうと思う。

 

語学学習を続けていく中、ある種のマイルストーンになるものが……「夢」

叶ったり破れたりする方の夢ではなく、夜眠っていて見る方の夢である。

 

語学学習と一言で言っても、大きく分けて「読む」「聞く」「書く」「話す」の四分野があるのだが、この全てをバランス良く一年ぐらい続け、ちょっとした会話が出来るレベルになってくると、学習している言語で話している夢を見ることがある。勿論会話のレベルは自分が習得している言語のレベルを超える事はないのだが。

どうしてそんな現象が起きるのか。「脳内において、外国語で思考する回路が出来上がっているから」だと思う。専門外なので勝手な推測であるが、夢の中でも学習言語で話せるのであればある程度のレベルに達していると考えられるので、喜んで良い現象である。

 

私の場合、実は大学の専攻が外国語関連だったのだが、その頃は一度も外国語で話す夢を見たことがなかった。外国語で行われる授業にも出席していたが、学習内容が「読む」に大きく偏っていた為、外国語で思考する回路は出来上がっていなかった。

では私が初めて外国語で話す夢を見たのはいつなのかというと、「英語」については海外移住後、英会話の講座に通い始めてからだった。一方、「居住地のローカル言語」は学習開始が遅かった為か、その言語で話す夢の発生はこの一年の間であったと記憶している。こちらの言語はあまり得意ではないせいか、毎日の使用頻度が英語よりも少し少ない程度にも関わらず、夢に登場したのは今まで一、二回のみである。しかも、「マジかよ!ありえないんですけど!」というような一言を発しただけだったと思う。

また、先日、フィリピン人海賊からポルトガル語を話すよう要求され、「出来ません。」と否定するという悲しい夢を見た。

夢の中でも、出来ないものは出来ないのである。

 

ここまで書いてふと思ったのだが、「江戸川コナンが殺人トリックを説明している最中の毛利小五郎」並みにぐっすり爆睡するタイプの人は、そもそも夢をあまり見ない(記憶に残らない)ので、この話から除外されてしまうのではないか。「語学学習のマイルストーン」と断言するには根拠が弱いかもしれない。

私自身は眠りが浅く夢を見やすい体質であり、この数ヶ月では、日本で焼いたホタテを食べる夢や、日本でキノコバーベキューをする夢、九州を旅行する夢などを見た。正直、外国語でも何語でもいいから、日本で美味しい寿司を食べる夢を見たいと、心の底から強く願っている。毎晩寝る前に寿司の写真を凝視していれば、夢に出てくるだろうか。

寿司、すし、SUSHI。憧れの、お寿司。

 

 

I sleep when I dream what does not exist;

I will wake when I dream what does exist.

 

THE BOOK OF DISQUIET (Fernando Pessoa, Jerónimo Pizarro)

 

 

 

 

『カモメに飛ぶことを教えた猫』。ルイス・セプルベダ氏よ、永遠に。

この記事を書いている途中で、久々にWikipediaでルイス・セプルベダ氏を検索したところ、「新型コロナウイルス感染により、4月16日死去」との記載があり、呆然としている。

志村けん死去以来の衝撃を受けている。何故、世界はこんなことになってしまったのだろう。

 

セプルベダ氏よ、どうか、安らかに……。

きっとあなたの魂は、言の葉で出来た美しい翼と輝く風に包まれて、天高く舞い上がり、遥か遠い世界へと旅立ったのだろう。

 

そして彼らの小さな心は

ーー曲芸師と同じ、その心はーー

何より恋焦がれていた

このありふれた雨に

いつでも風を連れてくる雨に

いつでも太陽を連れてくる雨に

ベルナルド・アチャガ『カモメ』(『カモメに飛ぶことを教えた猫』より)

 

 

__________

 

 

俳優の伊勢谷友介氏が大麻取締法違反で逮捕されたニュースについて、Yahooニュースのコメント欄をウッカリ見てしまった。Yahooニュースのコメント欄は、某ちゃんねる掲示板やTwitterを遥かに超越した狂気とルサンチマンの肥溜めなので即刻閉鎖すべきと思っているが、それについてはまたいつか書くとして、「アカの他人を一般市民が寄ってたかって断罪する」ということは、法治国家に暮らす先進国の人間としてどうなんだろう、と考え込んでしまう。

私は大麻推進派でもなければ伊勢谷氏のファンでもない。出演作も知らないし、昨日逮捕されるまで伊勢谷の読み方はずっと「いせたに」だと思っていた。伊勢谷氏はそれぐらいどうでもいい存在である。その上で思うのだが、大勢の無関係な人間が、他人を寄ってたかってサンドバッグにする行為は「誉高い善良な行為」とは言えないだろうし、そこから感じられる底無しの怨念にはゾッとさせられるものがある。

 

元々この一ヶ月体調に波があり、自粛や経済不安による閉塞感でメンタルの状態があまり良くなかったのだが、Yahooニュースのコメント欄なんぞ見てしまったせいでさらに気持ちが悪くなった。通勤再開で心身ともに疲れもだいぶ溜まっており、心の栄養補給をしなければ……と再読したのが、『カモメに飛ぶことを教えた猫』(ルイス・セプルベダ著、河野万里子訳、白水社)。

優しさと善意と誇りが、種族の違う一つの命を、その巣立ちまで守り育てた話である。

 

訳者・河野氏のあとがきによると、この本はチリ出身のセプルベダ氏が自分の子供達のために書いた本だが、欧州では<八歳から八十八歳までの若者のための小説>と謳われ、愛されているとの事である。確かに小学生でも読める文体ではあるが、大人が読んでも面白いし、むしろ大人になってから読まないと気が付かない寓意もあると思う。動物が主人公の冒険的寓話ということで、『冒険者たち』シリーズをふと思い出して懐かしい気持ちになったが、著者の根底にある思想が全く異なるので、同じ「子供に語りかける作品」でも違った味わいがある。

思想と言えば、著者はかつてグリーンピースにも参加しており、自然保護や動物愛護に関しては妥協の無い強い意志があるものと推測される。読者によっては「潔癖すぎる。」と感じるかもしれないが……問題提起として、本作は上手く書かれていると思う。

 

たとえばあのイルカの、哀れな運命はどうだろう。人間に対しても、知的であるところを見せてしまったばかりに、水族館で道化のようなショーをやらされている。

 

『カモメに飛ぶことを教えた猫』あらすじ

さて、ここまでダラダラ書いてようやくであるが、あらすじについて。

 

舞台はドイツの港町・ハンブルク原油塗れで瀕死のカモメ・ケンガーが、太っちょ黒猫ゾルバが日光浴するバルコニーに落ちてくる。カモメはこれから最後の力で産卵することを宣言し、彼女を哀れんだゾルバと三つの約束を交わす。「今から産まれる卵を食べないこと。ひなが生まれるまで卵の面倒を見ること。ひなに飛ぶことを教えること。」

猫がカモメに飛び方を教える……無理難題と卵ひとつを抱え込んだ雄猫ゾルバは、港の猫たち、そして一人の人間の詩人を巻き込み、小さなひな「フォルトゥナータ(幸運な者)」を育て、大空の旅路へと導く。

 

愛らしい日本語訳

この作品は訳者にも恵まれている。特にひなの描写がとても愛らしく翻訳されているのである。

 

ゾルバがひなに何を食べさせるべきか見当もつかず、台所からリンゴを持ってきた場面では

ひなは、おぼつかない足取りながらもなんとか立ち上がると、一生懸命りんごのところまで来た。そうして小さな黄色いくちばしでつついてみたが、りんごはまるでゴムでできているようにびくともしないうえに、つつかれた反動でごろりと戻ってきた。ひなは、後ろへはじき飛ばされた。

ひなが野良猫に襲われる場面では、もこもこの雄猫ゾルバに向かってひなが

「ママ、たすけて!」

野良猫を成敗した場面では、

「ママ、とってもつよい!」ひなはピヨピヨと大喜びだ。

 

勿論原文も愛らしいのかもしれないが、訳者が敢えてひなの台詞や描写を平仮名で表記することで、ひなの幼さや柔らかさが上手く表現出来ている。児童でも読めるように平易な表現を選んだのかもしれないが、いずれにせよ、素敵な訳文である。

 

選ばれし人間、「詩人」

『カモメに飛ぶことを教えた猫』では言葉の一つ一つ、全ての描写が、著者・訳者によって大切に取り扱われており、細かい点まで語り始めると終わらなくなる。例えば、「向かい風」という猫の名前や、秘宝館のようなバザール、著者がそっと滑り込ませた数々の寓意に冒険……そんな中で、私が一番気に入った要素である「詩人」について述べ、今回は終わりにしようと思う。

 

本作に登場する「人間」のうち、一番重要な人物は「詩人」である。名前については言及されていない。ブブリーナという美しい猫の飼い主でもある。

ひなからカモメへと成長したフォルトゥナータが十七回の飛行チャレンジに失敗した後、彼女の飛行の手助けは猫達だけでは力不足である故、人間の力を借りようとゾルバが仲間達に提案し、白羽の矢が立ったのがこの「詩人」である。

 

「もしかしたら、本物のつばさで飛ぶことについては、知らないかもしれない。でもあの人は、ことばとともに飛んでいるような気がしてしかたないんだ」

 

ここでわざわざ「詩人」を選んだセプルベダ氏のセンスには脱帽である。飛べないカモメ・フォルトゥナータに必要なのは、航空力学や実際の飛行術を知っている人間ではなかったのだ。「飛ぶ技術」は、カモメとして生まれた彼女の本能の中で眠っているだけだった。それを目覚めさせる「言葉」を持つ人間、それが「詩人」だったのだ。

「詩人」はゾルバへ「詩」を託し、ゾルバはその力でフォルトゥナータの背を押した。

言葉の力を信じる者、作家でありジャーナリストでもあったセプルベダ氏だからこそ書けた、世にも美しい現代寓話であった。

 

それに、これがもし夢だったとしても、それが何だというのだ?

こんなに愉快な夢なら、いつまでも見ていたい

 

 

 

有栖川有栖『インド倶楽部の謎』。カレーが食べたくなる本。

有栖川有栖の国名シリーズ『インド倶楽部の謎』を読み終わった。

 

国名シリーズについて有栖川氏は「エラリー・クイーンに倣って題名に国名を冠したものを有栖川有栖版の国名シリーズと称してきた。」と、あとがきで記しているが、私はエラリー・クイーンを読んでいないので、エラリー・クイーンの国名シリーズがどんなものだったのか、それと比べて有栖川氏の国名シリーズがどうなのか、などと論じる事は出来ない。「ミステリファンではないから……。」と言い訳してないで、いい加減にエラリー・クイーンを読んだ方が良いのかもしれない。

 

エラリー・クイーンとは比較できないので、他の有栖川作品との比較について。

私は今までに『鍵の掛かった男』、『狩人の悪夢』そして『新装版 46番目の密室』を読んだのだが、それらとは毛色の違う作品になるのではないかと思う。強いて言えば、『鍵の掛かった男』に近いのではないだろうか、「殺人トリックに重きを置いていない」という点に於いて。有栖川氏曰く「火村・アリスのシリーズには短編作品が多いので、数年前から長編作品を増やそうとしており、それにあたって意識しているのは、作品ごとに本格ミステリとしてのスタイルを変えることだ。」との事なので、本格ミステリという枠組みの中で様々な試みがなされているのだろう。同じシリーズでも読む作品毎に新たな世界、異なるスタイルを楽しむ事ができるのは、読者としては非常に嬉しいものである。

 

カレー友だち・火村英生

いきなりミステリと関係ない話になるが、火村シリーズ一作目『46番目の密室』以外は、食べ物、食事の描写がとても上手いと思う。(『46番目の密室』は、残念ながら食べ物についての印象が非常に薄い。)

グルメ小説ではないので、その部分に異常に力が入れられていてコテコテの表現がなされているわけではないのだが、出てくる食べ物、料理がどれも美味しそうなのである。私自身が日本食恋しさに食事シーンに異常に執着しているわけではない。証拠として、洋食の描写も非常に美味しそうに感じられる。以下、火村とアリスがある日のフィールドワーク中に食べることになるコース料理のメニューを書き出してみた。

 

・杏ジュース

・濃厚な豆のスープ

・蛸と鯛のカルパッチョにチーズを添えたもの。シーフードは、恐らく明石産

・スパイスの利いた白身魚の炭焼き

・極上チキンカレーとナン

・血の滴るような神戸牛のステーキ

・マンゴーをベースとしたシュリカンドと苺ムース

 

羨ましくて涎が出てくる。中でもカレーが美味しかったらしく、「カレーは極上だった。これまで食べたことがないチキンカレーで、味の深みがまるで違う。さながらスパイスの交響詩である。」と書かれている。嗚呼、どんなに美味しいカレーなんだろうか。自分で作ったカレー以上に美味しいカレーに出会った事がない(そもそも外食ではあまりカレーはオーダーしない)ので、そこまで美味しいカレーがどんなものなのか、殺人事件の犯人以上に気になる。

カレーについては、以下のような記載がある。

 

生田署の食堂のものとはまるで別物だし、ライスではなくナンで食べるとはいえ、またしてもカレーと対面してしまった。まったくもって火村英生は、カレーを呼ぶ男である。大学時代の初対面の時、彼が学生食堂で奢ってくれたのもこれだった。

 

今晩はチキンカレーを作ろうか……。

 

また、神戸の街の様子についても細かに書かれており、まるで神戸の異人館周りを観光しているような気持ちになれる。『鍵の掛かった男』では大阪・中之島が舞台となっており、そちらの描写もとても良かった。このように、ミステリ要素や蘊蓄以外の部分についても読んでいて興味をそそられるのが、有栖川作品の良いところだと思う。とても味わい深い。

 

ハリボテではない登場人物たち

登場人物の描き方の綿密さも、有栖川作品の魅力である。作風がハードボイルドではないので登場人物が無味乾燥ののっぺらぼうになる傾向を避けられているのかもしれないが……『46番目の密室』と比べて、有栖川氏の人物描写力が明らかに上達している。

本作は、神戸異人館群の中の一つ「インド亭」での小集会からスタートするのだが、「何だ、また古臭い、集会から始まる殺人事件か。どうせ気難しい老作家がホストで、周りは編集者だとか、ミステリ研究会の大学生だろう。」と思ったら、それは大間違いである。ひとりひとりの職業は現代的・現実的なものであり、性格、外見、行動パターンが、しっかり描かれている。

それと同時に、作中の「作家アリス」の観察眼も向上しているように感じられる。数々の事件を探偵役の火村と共に乗り越えてきた経験が、「作家アリス」の観察力を磨いたのだろうか……しかし、そう考えると、火村シリーズはサザエさん方式で、主役二人は歳を取らない「永遠の34歳」なので、時空の捻れが気になってしまう。

また、昔の作品についての描写がちらほら出てくるのだが、未読の為、どの作品の何の事なのかがわからない。非常に気になる。全部買って全部一気に読みたい欲望がむくむくと湧いてくる。

 

「前世とは昨日」「来世は明日」

本作品のテーマはカレー……ではなく、「輪廻転生」である。あまり詳しく語るとネタバレになってしまうので控えるが、「自分の前世」にどっぷり嵌まってしまう人というのは、どういう気持ちなのだろうか。どこを終着点としているのだろうか。人格の複数性……複数のペルソナによるドラマを持つことに対する特別感?「冴えない現世」からの、ちょっとした逃避?いずれにしても、本来の目的である「解脱」ではなさそうである。多くの場合、「輪廻転生」と言うと着目されるのは前世ばかりで、来世ではない。

私自身は、輪廻転生というものを信じていない。昔、芸能人が占い師に前世を占ってもらう番組をテレビで見た記憶があるのだが(一回ではなかったと思う)、占い師が宣言する芸能人の前世は大抵が「貴族」等、劇的な物語を持つ者であった。「ガンジス川のそばで野垂れ死にした最低カーストの老人」や「アイルランドのジャガイモ飢饉で死んだ農家の三男」「サバンナでハイエナに襲われて死んだ若い女」等、占いの結果を聞く人間にとっての物語性やインパクトが弱い人物が前世として指定されないのが、非常に胡散臭い。だから、そういった占いの類は全く信用ならないのである。

そんなインチキ臭い前世よりも、本作の中で言及された「前世とは昨日」「来世は明日」という言葉の方が、ずっと良いものだと思う。あるんだか無いんだかわからない前世を拠り所にするのではなく、今ここに存在する自分自身を大切に生きる考え方である。私自身、様々な体験を経て、十年前の自分とも、一年前の自分とも、すっかり別人である。明日はより良い人間に生まれ変わるために、今日を大切に、善く生きる。例え今日大失敗しても、この先に希望が見えなくても、たくさんの不安を抱えていても、明日は明日。良いか悪いか破滅するかは知らないが、全く違う世界が待っているのである。 

 

漠然と恐怖の彼方にあるものを或いは素直に未来とも言ふ

近藤芳美、『埃吹く街』

 

 

 

 

おすすめポルトガル音楽(3)里斯本は幻想的、情緒的、異国的。

前回のポルトガル音楽の記事ではファドとファドの歌い手を紹介したが、今回はバンド音楽を紹介したいと思う。

バンド音楽と言っても、ハードではない(Die!Die!Die!!!などと叫んだりはしない)、聴いているとワクワクしてくる音楽なので、安心してYouTubeで検索して下さい。

(日本のバンドで例えるとスピッツぐらいの軽やかさだと思う。)

 

アーティスト名"Sebastião Antunes & Quadrilha feat Viviane"

曲名"Um dia de Lisboa"

 

Sebastião Antunes & Quadrilhaは、ギター、ブズーキ、ンゴーニなどの弦楽器を操るボーカルのセバスティアン・アントゥネスと、愉快な……かどうかは知らないが、4人の仲間たち(アコーディオン、ヴァイオリン、ベース、ドラムス)による、ポルトガルフォークソング・バンドである。ウィキペディアと公式サイトによる説明をサッと見る限り、セバスティアンは何だか凄い人のようなのだが、とても全文訳する気力(とポルトガル語力)が無いので、バンド紹介はこの程度にしておく。ちなみに、"feat Viviane"のVivianeは誰なのかわからない。(毎度の事ながら私は諦めが良い、わからない事はぶん投げである。)

 

曲名は「リスボンの一日」。

リスボンよいとこ一度はおいで、というような雰囲気の曲なのだが、サビのフレーズがノスタルジックかつキラキラしていてとても良い。ticaで踏んでいる韻が、ポルトガルの海や人の輝きのよう。

 

Lisboa está fantástica, romântica, exótica

Lisboa está fantástica, e é tão bom aqui estar

Lisboa está fantástica, romântica, exótica 

Lisboa está fantástica, e é tão bom aqui estar

 

訳すと

リスボンはファンタスティック、ロマンティック、エキゾティック

リスボンはファンタスティック、ここにいてとってもハッピー」

という感じだろうか。

カタカナだらけになってしまったが、せっかくのリズム感を破壊したくなかったので仕方がない。

(無理やり漢字に直すと「里斯本は幻想的、情緒的、異国的。」となり、何だか明治時代の留学生による手記のようである。歌の雰囲気を表せているとは思えない。)

 

尚、サビに入る直前の歌詞が毎回フランス語なのだが、その辺の事情も謎である。ポルトガル旅行に来たフランス人がリスボンで旅情を感じている、という設定だろうか。

聴いているとリスボンに行きたくてソワソワしてくる曲の中の一つである。